「袁世凱」の版間の差分

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しかし、結果はまったく予想と反するものだった。北京では学生らが批判のデモを行い、地方の軍閥はこれを口実に次々と反旗を翻した。彼の足元の北洋軍閥の諸将までもが公然と反発し、袁世凱を批判した。さらには当初傍観していた日本政府が、皇帝即位の受けの悪さを見て取るや、厳しく非難を始めた。結局洪憲元年(1916年)3月にしぶしぶ退位した。しかし一度失墜した権威は戻らず、同年6月に失意のうちに病死した。死因は[[尿毒症]]と伝えられる。
 
袁世凱の死後、彼の部下であった馮国璋、[[徐世昌]]、段祺瑞などが相次いで政権につきいわゆる[[北京政府]]として対外的に中華民国の正式政府として存続したが、いずれも大陸全体をまとめる力を持ちえず、各地方を根拠とする軍閥割拠の時代に突入した。[[蒋介石]]の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]が終了するまでの10年余り、この状況が続くこととなる。
 
== 評価 ==
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