「日本三名園」の版間の差分

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== 歴史 ==
「日本三名園」もしくは「三名園」という言葉がいつ頃から使われ始めたのかは不明であるが、文献上では[[明治]]32年 (1899年)発行の「日本三名園之一 後楽園新圖」に既にこの言葉が使用されている。また [[明治]]37年([[1904年]])<ref>[http://jpninfo.com/50243 Japan Info(英語版)]</ref><ref>[http://gochagocha.cool.coocan.jp/Main/Sanmeien.htm なぜ後楽園が日本三名園に?]</ref>に外国人向けに発行された写真集に既にこの言葉が使われている。やや異なる言い回しの「日本三公園」を含めるならば、明治24年(1891年)8月、岡山の後楽園を訪れた正岡子規が記念写真の裏に「'''岡山後楽園 日本三公園ノ一'''」とメモしたものが存在する<ref>{{Cite web|title=【知られざるニッポン vol.24】日本三名園に隠された「意外な事実」|url=https://tabi-mag.jp/3-great-gardens/|website=ニッポン旅マガジン|date=2017-02-16|accessdate=2019-04-27|language=ja|publisher=}}</ref>。

なおこの三園の選定理由として、いわゆる[[雪月花]]の[[雪]]に兼六園、[[月]]に後楽園、[[花]]に偕楽園を対応させたものであろうとする説がある。ただし、三園ともに江戸時代に造営された池泉回遊式の[[大名庭園]]であり、この「日本三名園」には日本庭園における他の形式である[[枯山水]]や[[露地|露地(茶庭)]]など、池泉回遊式以外の形式のものは含まれていない。

なお、明治43年に文部省から発行された『高等小学読本』巻一には、「・・・我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ偕楽園、金沢ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシテ、之ヲ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ批ノ三公園ニ優レリ」とあり、[[高松市]]の[[栗林公園]]は日本三名園より優れていると記載されていた。
 
== 関連項目 ==