「呂範」の版間の差分

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若い孫権は金欲しさでたびたび公費を使い込んでは、周谷が帳簿をごまかしてやっていた。孫策はあるとき、呂範に会計事務の仕事を任せることになった。孫権は度々呂範に金の無心をしたが、呂範は必ず孫策の許可を求め、孫権には好き勝手に金を使わせなかったと言う。孫権はこのことから初め呂範を嫌っていたが、後に孫権が当主となると、呂範の節度を大いに褒めて信任したという。逆に、当時孫権のために帳簿を書き換えしていた人物は、その当時こそ孫権に気に入られたものの、後に「勝手に帳簿を書き換える人間など信用できない」ということであまり重く用いられなかった。忠実さを評価されて、信任される理由の一つとなった。
 
孫権は都を建業に戻して、酒宴大会が行われたときのこと、[[厳シュン|厳畯]]は、孫権が魯粛と呂範を実質以上の評価をし過ぎるのではないかと、納得できないと漏らしたことがあったので、孫権は呂範について、「奢侈を好む性格ではあったが、他の軍務に悪影響あったわけではなく、みずから軍を編成し、本来の職務も慎み励み、忠誠心にあつく清潔でまっすぐ、公への配慮があった。そこが吳漢に似てるんであって、かつての呉漢に似ている」といった。厳畯はこれを聞いて納得した。孫権が厳畯と討論した際、呂範を光武帝の功臣の呉漢に準えている(『江表伝』)。
 
あるひとが「呂範と賀斉は奢侈で、服飾は帝王を僭擬してる」という。孫権「昔、管仲の礼を越える事を桓公は優遇してこれを容認したが、覇業を損いはしなかった。今、子衡・公苗の身には夷吾の過失は無く、ただその器械の精なるを好み、舟車を厳整しているだけだ。どちらも軍容を立派にするもの。どうしてダメなのかね」と。告げた者は再びは言おうとしなかった。 (『江表伝』)
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