「蔣介石」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
突撃隊 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
411行目:
 
== 人物 ==
* [[第一次国共合作]]の頃は、「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米の圧力や[[浙江財閥]]との関係により、「上海クーデター」以降は[[反共主義|反共主義者]]に[[転向]]し、冷戦時代からは[[世界自由民主連盟|世界反共連盟]]を台北に設立して国際的な反共運動を主導した。[[日中戦争]]勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先したするほどであり<ref>[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]著 『蒋介石神話の嘘』</ref>。また[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は、毛沢東より西安事件の際第一次国共合作時代の蒋介石を高く評価知る周恩来に説得されるまでの徹底的な反共ぶりに張学良も困惑していた<ref name="A">林博雄著. 『蒋介石神話の嘘』《張學良倉前盛道著宋子文檔案大揭秘》. 『悪の論理』台北: ほか時報文化. 2007. ISBN 978-957-13-4772-1.</ref>と言われ、毛を犠牲にしても蒋介石を通じて、中華民国を赤化させるつもりであったという説もある。実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。蒋介石の息子である蒋経国は、実質的な人質として[[モスクワ]]へ留学している
* [[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は蒋介石を高く評価していたとされ<ref name="A">黄文雄著 『蒋介石神話の嘘』、倉前盛道著 『悪の論理』 ほか</ref>、西安事件の際に中国共産党は蒋介石の処刑を主張するも日本に勝利するためには蒋介石の力が必要と考えていたスターリンは許可しなかったとされる<ref>「史達林承認過去以共黨分子分化國民黨為錯誤之舉,唯有蔣介石才能牽制日本,須先嚴防日本侵犯中國而逼進蘇聯邊界。同時蘇聯消息報、真理報也公開支持蔣介石」見墨爾:《蔣介石的功過:德使墨爾駐華回憶錄》,1994年</ref>。蒋介石の息子である蒋経国は、実質的な人質として[[モスクワ]]へ留学している。
* 辛亥革命前後に[[青幇]]に加入し[[杜月笙]]とは義兄弟の関係であり<ref>蒋の方が位は下であった。</ref>、[[上海クーデター]]の際には青幇の協力を得て共産党員の大量殺害を行なった。その後も青幇の麻薬資金が蒋介石の経済的基盤となる。杜月笙の墓地には蒋介石揮毫による「義節聿昭」の牌がある。
* 戦後、台湾を訪れた蒋介石は日月潭の風景を特に気に入っており、別荘を建てて26年の間で100回以上もこの地を訪れ、また湖畔に住む先住民[[サオ族]]の伝統舞踊を好み援助を惜しまなかった。だが、舞踏団を国共内戦での兵士の慰問に派遣したり、現地人の一人毛信孝を「酋長」と称して宣伝の対称にする(本来、サオ族に酋長の伝統はない)など、本来の風習とはかけ離れたものであった。また当初、儀式の中で現地の人間が洋服を着ているのを見て、「何故蛮族が服を着ているのか」と尋ね、以降、蒋介石の前で儀式を行う際は伝統衣装で行うよう定められた。現地住民の一人はその時のことを回想し「蒋介石は心が曲がっているとしか思えない」と語っている<ref>坂野徳隆『台湾 日月潭に消えた故郷』(ウェッジ刊)</ref>。