「蔣介石」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
突撃隊 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
突撃隊 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
342行目:
トルーマンは前大統領のルーズベルトとうって変わって蒋介石及び中国国民党への援助に消極的となる。なおこの背景にはアメリカ政府内に入り込んだソ連や中国共産党側のスパイの活動があったと言われている。これと反対にソ連は中国共産党への支援を活発化させていったため、次第に劣勢に追い込まれていくことになる。中国共産党はこれに対して1946年6月22日に「アメリカの蒋介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出<ref name="經濟學研究">{{Cite journal|和書|author=西川博史 |title=アメリカの対日政策の転換と中国の動向 (長岡新吉教授 退官記念号 I) |date=1994 |publisher=北海道大学 |journal=經濟學研究 |volume=43 |number=4 |naid=110004464653 |pages=73-92 |ref=harv}}</ref>。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった<ref name="經濟學研究" /><ref> フリーダ・アトリー(西川博史・石堂哲也訳「アトリーのチャイナ・ストーリ」日本経済評論社。</ref>。8月10日にはトルーマンが蒋介石にその行動を非難するメッセージを送り、国内問題の早急な平和的解決への努力を要請し、8月31日に再度、国共間の政治的解決こそが中国の再建という大事業を可能にさせるのであり、「中国全土に広がる内戦の危機の脅威を速やかに除去することができるならばアメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画を実行に移すことになろう」と警告を発したが、それもなんら効力を発揮することなし国民党の軍事攻勢は続けられた<ref name="經濟學研究"></ref>。<!--「[[赤狩り]]」を主導した共和党の[[ジョセフ・マッカーシー]]および1995年に公開された米国務省[[ベノナ|ベノナ文書]] (この部分はマッカーシーの著書以外の信頼できる出典が必要です。)は、マーシャルが周恩来に魅了され、「中国人が根っからの共産主義者ではない」と考え、また周恩来が「もし米国が中国に民主主義を導入する手助けをしてくれればロシアとの連携を断ち切る」と約束していたと主張している<ref name="マッカーシー">{{Cite book|和書|author=McCarthy,JosephR. |author2=本原俊裕 |author3=副島隆彦 |title=共産中国はアメリカがつくった : G・マーシャルの背信外交 |date=2005 |publisher=成甲書房 |isbn=4880861928 |series=発掘!アメリカの嘘 |ref=harv}}</ref>{{信頼性要検証|date=2014-10}}。また、マッカーシーは、1946年7月の周恩来とマーシャルの会談では周恩来の要請をうけて、[[アルバート・C. ウェデマイヤー]]の中国大使任命をマーシャルが妨害したとし、アメリカ政府の人事にも中国共産党の意向が反映されたとも主張している<ref name="マッカーシー"></ref>{{信頼性要検証|date=2014-10}}。同年8月には、国民党への武器援助が禁止された<ref name="マッカーシー"></ref>{{信頼性要検証|date=2014-10}}。-->マーシャルは当時トルーマン大統領に、国共間の調停が絶望的であること、その多くの責任は蒋介石にあるとして非難している<ref>"General Marshall to President Truman", May 6,1946, Foreign Relations 01 the United States,1946 Vol IX, pp.815-18.</ref><ref name="經濟學研究" />。またトルーマン大統領自身も、国民党への不満を後に表明している<ref>H. Sトルーマン/加瀬俊一監修,堀江芳孝訳「トルーマン回顧録~II,恒文社,1992年,p64-77</ref>。1946年12月18日、トルーマン大統領は「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する<ref name="經濟學研究"></ref>。つまり、[[マーシャル・プラン]]のような中国の工業および農業改革の復興を援助する計画は、内戦を行ったことで破綻となったのである。
 
また[[1947年]][[2月27日]]、台北市で行われた抗議デモに対して憲兵隊が発砲し、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧するという[[二・二八事件]]が起きた。その後蒋介石は台湾全土に[[戒厳令]]を敷き、以降[[白色テロ (台湾)|白色テロ]]による支配を行うこととなる。なお蒋介石は[[1948年]]に中華民国の初代総統に就任するが、反発を受け1949年に辞任した
 
[[1948年]]に中華民国の初代総統に就任するが、反発を受け、1949年に辞任した。[[中華民国副総統|副総統]]だった[[李宗仁]]が総統代理となり、共産党との和平交渉を開始して同年4月に[[張治中]]を代表とする和平交渉団が最終案を持ち帰るも調印されなかった。
 
=== 台湾へ ===
352 ⟶ 354行目:
</gallery>
 
1949年、国民党政府は中国共産党に敗北し、蒋介石は首都・南京を脱出し、重慶などを経て、12月に[[成都市|成都]]から、息子の蒋経国とともに飛び立ち[[台湾島]]の[[台北市|台北]]に遷都することになる(台北は臨時首都)。アメリカのトルーマン政権は蒋介石率いる国民党政権の無能ぶりを厳しく批判しており、CIAの見通しではアメリカの介入が無ければ1950年中に台湾も共産党の手に落ちるであろうと予測していた。1950年1月、トルーマン大統領は台湾への不介入方針声明を発表し<ref>{{cite web|title=Harry S Truman, “Statement on Formosa,” January 5, 1950|url=http://china.usc.edu/harry-s-truman-%E2%80%9Cstatement-formosa%E2%80%9D-january-5-1950|publisher=[[南カリフォルニア大学]]|date=February 25, 2014|accessdate=2017-05-10}}</ref>、アチソン国務長官もまたアメリカの西太平洋防衛ラインから台湾を除外することを示唆した。しかしこの頃になると、トルーマン政権の無策が中国を共産圏に追いやったとの批判が共和党を中心に各方面から噴出し、このままむざむざ台湾を共産党側に渡すことに反対する意見が高まってきており、蒋介石はアメリカの態度好転に期待を繋いでいた。蒋介石は、3月に総統への復任を宣言した。海南島、舟山諸島の失陥後、台湾は臨戦態勢に入った。蒋経国は各部隊を慰問して、たとえ死すとも領袖蒋介石に忠誠を尽くすとの血盟宣誓を行うキャンペーンを繰り広げており、台湾全土が事実上蒋介石と運命をともにすることを強要された。台湾全土が極度の緊張に包まれていく中、1950年6月25日、突如として事態が急変する。[[朝鮮戦争]]により、トルーマンは同年1月に発表していた台湾不介入声明<ref>{{cite web|title=Harry S Truman, “Statement on Formosa,” January 5, 1950|url=http://china.usc.edu/harry-s-truman-%E2%80%9Cstatement-formosa%E2%80%9D-january-5-1950|publisher=[[南カリフォルニア大学]]|date=February 25, 2014|accessdate=2017-05-10}}</ref>を撤回して同年6月に台湾海峡の中立化を名目に[[第七艦隊]]を派遣した。朝鮮戦争に[[人民義勇軍]]が参戦した為、人民解放軍による中華民国への軍事行動は[[1950年]]10月から一時的に停止した。
 
[[1950年]]3月に再び総統に就任し、アメリカからの全面的協力を受けて大陸反攻を目指すこととなる。しかし同年に香港に[[植民地]]を抱えるイギリスが中国共産党が建国した[[中華人民共和国]]を承認したほか、[[朝鮮戦争]]への国連軍側としての参戦をアメリカから拒否されるなどの逆風を受けた。