「孝徳天皇」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
39行目:
『[[日本書紀]]』の評によれば、天皇は仏法を尊び、[[神道]]を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。また、蘇我入鹿を避けて摂津国三島に引きこもっていた中臣鎌子(後の[[藤原鎌足]])が即位前の軽皇子時代に接近していたことが知られる(『日本書紀』皇極天皇3年正月乙亥朔条)<ref>軽皇子の宮について、摂津[[有馬温泉|有間]](青木和夫「藤原鎌足」『日本古代の政治と人物』吉川弘文館、1977年)・摂津阿倍野(田村圓澄『藤原鎌足』塙書房、1966年)・和泉軽部郷(遠山美都男「〈乙巳の変〉の再構成-大化改新の新研究序説」『古代王権と大化改新 律令制国家成立前史』雄山閣、2005年)・摂津山崎(笹川尚紀「皇極朝の阿倍氏」『日本書紀成立史攷』塙書房、2016年)の諸説がある。</ref>。
 
[[皇極天皇]]4年6月12日(645年7月10日)に[[乙巳の変]]が起きると、翌々日に[[皇極天皇]]は中大兄皇子に位を譲ろうとした。[[天智天皇|中大兄皇子|中大兄]]は辞退して軽皇子を推薦した。軽皇子は三度辞退して、[[古人大兄皇子]]を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。
 
14日の内に、[[皇極天皇]]から史上初めての[[譲位]]を受け、軽皇子は壇に登って即位した。[[立太子]]は経ていない。皇極前天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄を[[皇太子]]とした。阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を[[左大臣]]に、蘇我倉山田石川麻呂を[[右大臣]]にした。中臣鎌子(藤原鎌足)を[[内臣]]とした。僧[[旻]]と[[高向玄理]]を[[国博士]]とした。