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曹丕の統治は主に王権を重視するものであった。[[宦官]]を一定以上の官位に昇進できないようにしたのは、その端的な処置であると言える。他にも[[文徳皇后郭氏|郭氏]]を皇后に立てる際は、皇帝を差し置いての太后への上奏を禁じ、[[冀州]]の兵士5万戸を[[河南郡]]に移した。身内にも厳しく、曹植を始めとする兄弟を僻地に遠ざけ、地力を削ぐため転封を繰り返したことで有名である。これによって必要以上に藩屏の力が衰えた。曹操死後において、曹丕が跡を継ぐと司馬懿はますます重用され、後の[[司馬氏]]の台頭を招いてしまった。魏を滅ぼした[[西晋]]の武帝[[司馬炎]]はこれに鑑みて皇族を優遇したが、今度は逆に諸王に軍事権まで与えるなど厚遇が過ぎ、[[八王の乱]]を引き起こすに至る。
 
政治面では曹丕は年上である孫権を信じてやり、孫権の謀略に欺か翻弄され、手玉にとられている。軍事面では3度にわたり[[呉 (三国)|呉]]に出兵したが、いずれも勝利を得ることはできず、3連敗を喫している。なお、文帝は在位わずか6年で崩御するが、それが成形したばかりの王朝の基盤を培うには不充分な期間だったため、結果として魏の寿命を縮めたという指摘もある。
 
== 後世の評価 ==
劉備臨終の際、諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある」と言った。孫権は諸葛瑾への手紙には、曹操の統率力を高く評価し、また曹丕は曹操より万事に及ばない、と書いたという。
 
曹丕は戦下手だし皇帝在位中には国内の小さな混乱はなかった。が、曹丕が魏を建国した220年に制定した九品中正法は後の政局の腐敗を招いた。上位の官僚に力のない寒門からはなることはできず、力のある勢族から下位の官僚になる者はいない。司馬懿はその欠陥を悪用し自分の息のかかった人物を登用する手段として用い、西晋時代に入ると豪族たちが貴族化し、貴族台頭の時代を迎える。王朝政権は腐敗しており、豪族共同体は私利私欲で崩壊していくことになる。
 
『三国志』の撰者である[[陳寿]]は「文学の資質には天稟といえる趣があり、博聞強記の学識と技芸の才能を兼備していた。これでこのうえ、広大な度量を加え、公平な誠意をもって努め、徳心を充実させることが出来たならば、古代の君もどうして縁遠い存在であっただろうか」と評されており、つまり婉曲的に『器が小さい、不公平で誠意のない、寡徳な欠陥人格者暗君』だと言われている。
 
== 『列異伝』に関する考察 ==
 
[[ホウ統|龐統]]の弟[[ホウ林|龐林]]の妻は、同軍の[[習禎]]の妹であった。曹操が荊州を破ったとき、龐林の妻は龐林と離ればなれになり、一人で幼い娘を十余年養育した。後年、龐林が[[黄権]]に従って魏に投降したとき、やっとふたたび親子一緒になることができた。聞き知った曹丕は彼女を賢婦だと思い、寝台・帳・衣服を賜って、その節義を表彰した<ref>『[[襄陽記]]』</ref>。
 
曹丕は、死後の甄氏に振り乱した髪で顔を覆われ、ぬかを口につめこまれて埋葬された<ref>『[[漢晋春秋]]』</ref>。甄夫人の死後、郭夫人が皇后に立てられた。
 
三輔(長安)が混乱すると、王忠は飢え苦しんで人肉を食した。後に五官中郎将だった曹丕は、曹操・王忠らと共に外出したことがあった。このとき曹丕は、芸人に命じて墓場から髑髏を取って来させ、これを王忠の鞍に括り付けさせた。かつて人肉を食った王忠を、笑い者にしたのである。
 
丁儀は文才に優れており、曹操からもその才能を評価され、異母姉の清河長公主(曹昂の同母妹)を嫁がせようと考えていた。しかし息子の曹丕に意見を求めた際「丁儀の容貌は斜視(眇=すがめ、片目が小さいこと)なので、そのような醜い男の妻になっても姉上がお気の毒です」と答えたために、曹操は気が変わり、最終的に夏侯楙に対し清河公主を嫁に出した。だが曹操は、後に丁儀が改めて有能だとわかると「やはり娘を丁儀に嫁がせるべきであった」と、大いに後悔したという。夏侯楙は関中にいた頃、多くの娼妓を囲っていたため、清河長公主と仲が悪くなった。このような経緯もあり、丁儀は曹植を曹操の後継者に押し、熱心に運動した。220年に曹操が死に、曹植との後継者争いに勝利して王位に即位した曹丕は、報復人事を起こし、丁儀が捕えられて殺されたばかりか、丁一族はすべて誅殺されてしまった。
 
曹丕は弟の曹彰が勇猛であるのを憎んでいた。そこで、母の卞太后の部屋で一緒に碁を打ち、ともにナツメを食べる折、文帝は毒をナツメのへたの中に入れておいて、自分は食べてもよい物を選んで口にした。王はそれとも知らず、毒のある物、ない物、ともに口にしてしまった。毒が回ってきたので、太后は水を持ってきて手当てをしようとしたが、帝はあらかじめ左右に命じてつるべを壊させておいたので、太后ははだしで井戸へ走って行ったが、水を汲むことはできなかった。しばらくして、ついに王の息は絶えた。帝は、次に東阿王(曹植)を殺そうとした。太后は言った。「おまえはもう私の任城王を殺した。この上、私の東阿王までも殺すことはまかりならぬ」<ref>『[[世説新語]]』</ref>。
 
曹操が崩じたとき、子の曹丕は、曹操の寵姫たちをみな自分のものにして、はべらせた。文帝の病気が重くなったとき、母の卞后が見舞いに行った。彼女が部屋に入ってみると、とのいの侍女はみな昔、先帝が寵愛した者たちだった。太后が「いつここに来たのです?」と問うと、寵姫らは「おかくれあそばされたすぐ後で参りました」という。そこで太后はそれ以上進まず、嘆息しながら「犬やネズミでもお前の食べかすは食らうまい。死ぬのは当然でしょう」と言った。文帝の大葬にも太后はまったく哭泣しなかった<ref>『[[世説新語]]』</ref>。
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