「曹丕」の版間の差分

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その後、献帝に禅譲を迫って皇帝の座に即位した。ただし、表向きは家臣たちから禅譲するように上奏し、また献帝から禅譲を申し出たのを曹丕は辞退し、家臣たちに重ねて禅譲を促されるという形を取った。2回辞退したのちに、初めて即位した。ここで後漢が滅亡し、[[三国時代 (中国)|三国時代]]に入ることになる。文帝は内政の諸制度を整え、父から受け継いだ国内を安定させた。特に[[陳羣]]の進言による[[九品官人法]]の制定は、後の世に長く受け継がれた。
 
[[黄初]]3年([[222年]]-[[223年]])に始まった出兵は、三路から呉を攻め、[[曹休]]が[[呂範]]を破り、[[曹真]]・[[夏侯尚]]・[[張コウ (曹魏)|張郃]]らが[[孫盛 (孫呉)|孫盛]]・[[諸葛瑾]]を破り、後に[[曹仁]]と[[曹休]]が最終的に大敗した。[[荊州区|江陵城]]は五重六重に包囲され孤立無援となり、しかし朱然は兵を励まし、隙を窺い魏軍の二つ陣地を破った。包囲は半年に及び、曹真らは朱然を攻め敗れず、また疫病が流行したため退却せざるを得なかった([[濡須口の戦い#第三次戦役・三方面攻撃(222年-223年)|222年から223年にかけての三方面での戦い]])。
 
黄初5年([[224年]])の出兵では、曹丕は10数万の軍勢を率いて広陵からそのまま出撃し、[[徐盛]]が長江沿岸に築いた偽の城壁に驚き、曹丕は広陵に到ると囲営を望見して愕然とし、魏の人々は偽城を恐れ、延々すること数百里で、しかも江水も盛長となり、これを見て「孫権には未だ人材が多く、攻め取るのは難しい」と感嘆し、大波が船団を覆す、戦わずして退却した。
曹丕の統治は主に王権を重視するものであった。[[宦官]]を一定以上の官位に昇進できないようにしたのは、その端的な処置であると言える。他にも[[文徳皇后郭氏|郭氏]]を皇后に立てる際は、皇帝を差し置いての太后への上奏を禁じ、[[冀州]]の兵士5万戸を[[河南郡]]に移した。身内にも厳しく、曹植を始めとする兄弟を僻地に遠ざけ、地力を削ぐため転封を繰り返したことで有名である。これによって必要以上に藩屏の力が衰えた。曹操死後において、曹丕が跡を継ぐと司馬懿はますます重用され、後の[[司馬氏]]の台頭を招いてしまった。魏を滅ぼした[[西晋]]の武帝[[司馬炎]]はこれに鑑みて皇族を優遇したが、今度は逆に諸王に軍事権まで与えるなど厚遇が過ぎ、[[八王の乱]]を引き起こすに至る。
 
政治面では曹丕は年上である孫権を信じてやり、孫権の謀略に翻弄され、手玉にとられている。軍事面では3度にわたり[[呉 (三国)|呉]]に出兵したが、いずれも勝利を得ることはできず、3連敗を喫している。なお、文帝は在位わずか6年で崩御するが、それが成形したばかりの王朝の基盤を培うには不充分な期間だったため、結果として魏の寿命を縮めたという指摘もある。
 
== 後世の評価 ==
劉備臨終の際、諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある」と言った。孫権は諸葛瑾への手紙には、曹操の統率力を高く評価し、また曹丕は曹操より万事に及ばない、と書いたという。
 
曹丕は戦下手だし皇帝在位中には国内の小さな混乱はなかった。が、曹丕が魏を建国した220年に制定した九品中正法は後の政局の腐敗を招いた。上位の官僚に力のない寒門からはなることはできず、力のある勢族から下位の官僚になる者はいない。司馬懿はその欠陥を悪用し自分の息のかかった人物を登用する手段として用い、西晋時代に入ると豪族たちが貴族化し、貴族台頭の時代を迎える。王朝政権は腐敗しており、豪族共同体は私利私欲で崩壊していくことになる。
 
『三国志』の撰者である[[陳寿]]は「文学の資質には天稟といえる趣があり、博聞強記の学識と技芸の才能を兼備していた。これでこのうえ、広大な度量を加え、公平な誠意をもって努め、徳心を充実させることが出来たならば、古代の君もどうして縁遠い存在であっただろうか」と評されており、つまり婉曲的に『器が小さい、不公平で誠意のない、寡徳な暗君欠陥人格者』だと言われている。
 
== 『列異伝』に関する考察 ==
[[ホウ統|龐統]]の弟[[ホウ林|龐林]]の妻は、同軍の[[習禎]]の妹であった。曹操が荊州を破ったとき、龐林の妻は龐林と離ればなれになり、一人で幼い娘を十余年養育した。後年、龐林が[[黄権]]に従って魏に投降したとき、やっとふたたび親子一緒になることができた。聞き知った曹丕は彼女を賢婦だと思い、寝台・帳・衣服を賜って、その節義を表彰した<ref>『[[襄陽記]]』</ref>。
 
曹丕は、死後の甄氏に振り乱した髪で顔を覆われ、ぬかを口につめこまれて埋葬された<ref>『[[漢晋春秋]]』</ref>。甄夫人の死後、郭夫人が皇后に立てられた。
 
三輔(長安)が混乱すると、王忠は飢え苦しんで人肉を食した。後に五官中郎将だった曹丕は、曹操・王忠らと共に外出したことがあった。このとき曹丕は、芸人に命じて墓場から髑髏を取って来させ、これを王忠の鞍に括り付けさせた。かつて人肉を食った王忠を、笑い者にしたのである。
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