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=== 凶弾に斃れる ===
民国10年([[1921年]])4月、&#x9127;鏗は孫文が準備した[[北伐 (中国国民党)|北伐]]に参加し、[[広西省]]へ進撃した。同年12月、[[桂林市|桂林]]に孫文が大本営を設置すると、&#x9127;率いる第1師がこれを護衛した。しかしこの頃になると、孫文と陳炯明との間で北伐の続行を巡って対立が発生し、&#x9127;が両者を懸命に調停する事態となっていた。
 
民国11年([[1922年]])3月21日、&#x9127;鏗は広州将弁学堂時代の師を出迎えるために香港を訪れていた。ところが、用事を終えて広州の大沙頭広九駅に降り立ったところを何者かに銃撃されてしまう。腹部に2弾を受けた&#x9127;は治療の甲斐も無く、23日に死亡した。享年37(満36歳)。
 
&#x9127;鏗遭難の報に接した孫文は、陸軍上将の位を追贈した。&#x9127;の死は、もちろん孫文ら南方政府派にとって人材的に大きな痛手となった。しかしそれだけではなく、孫文と陳炯明とを調停できる唯一の人間が失われてしまい、同年6月の陳の兵変へとつながることになったのである。なお粤軍第1師では、参謀長の李済深が後任師長に就任している。第1師は後の[[国民革命軍]]第4軍として[[北伐 (中国国民党)|北伐]]に貢献し、「'''鉄軍'''」との呼称により賞賛されることになった。
 
== 参考文献 ==