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=== 狭義の任那説 ===
狭義の任那は、任那地域に在った[[伽耶#金官国(駕洛国)|金官]]国(現代の[[慶尚南道]][[金海市]])を指す<ref name=yoshida>吉田1997 pp.74-76.</ref>。[[田中俊明]]<ref>田中俊明「高句麗の「任那加羅」侵攻をめぐる問題」『古代武器研究』第2号(2001年)</ref>や[[熊谷公男]]<ref>熊谷公男「"東夷の小帝国"論と「任那」問題」小口雅史 編『律令制と日本古代国家』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-804-9</ref>は「金官」元々4つの邑で成立しており(『日本書紀』継体天皇23年4月条にこの国を構成する4つの邑の1つとして登場することから、「金官」の国名を首邑のあった邑名に由来すると説き、本来は「任那」と称される邑に首邑があったが、400年の高句麗の侵攻によって本来の首邑「任那」失って金官に首邑を移したために国名も「金官」と変更されたが、日本側では引き続き旧称の「任那」が用いられたとする説を唱えている<ref>熊谷、2018年、P15-16.</ref>。中国及び朝鮮史料の解釈ではこちらの用法が多いが、『[[日本書紀]]』では[[532年]]に金官国が新羅に征服されてからも、それ以外の地域が相変わらず任那とよばれているから『日本書紀』の用法は後述の「広義の任那」である。
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