「広島藩」の版間の差分

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なお、綱長時代の藩政は商品経済の発達による藩財政の行き詰まりが顕著になったため、家臣団の知行削減や[[藩札]]の発行が行なわれている。
 
こうして江戸時代中期になると、財政は悪化に転じた。第5代藩主・[[浅野吉長]](綱長の長男)は家老から実権を奪い返して親政を試み、有能な人材登用、「郡方新格」による郡村支配の強化を目指して藩政改革を試みたが、郡村支配の強化は反発を招いて[[享保]]3年([[1718年]])3月に大規模な[[一揆]]にあい、失敗に終わった。なお、享保5年([[1720年]])5月に三次藩が断絶したため、享保15年([[1730年]])3月に吉長は弟の長賢に蔵米3万石を分与して、[[新田分知]](広島新田藩)を立藩し、本家の継嗣が断絶した際に備えた。また享保10年(1725年)、広島藩の藩校として、白島稽古屋敷の一部を割いて「講学所」(現在の[[修道中学校・修道高等学校]]・広島修道大学)を創始した。
 
第6代藩主・宗恒(吉長の長男)は宝暦の改革と言われる藩政改革に着手して成功を収め、財政が好転する。