「杉浦正健」の版間の差分

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[[2000年]][[6月25日]]、[[第42回衆議院議員総選挙|第42回総選挙]]が行われ4期目の当選。同年[[8月5日]]、総選挙で[[公明党]]、[[保守新党|保守党]]との選挙協力に失敗した責任をとり、自民党愛知県連会長の[[村田敬次郎]]が辞任<ref>『中日新聞』2000年8月6日付朝刊、県内版、16面、「自民党県連 会長ら3幹部が辞任 参院選へ体制一新 名古屋市連設置も」。</ref>。[[9月1日]]、村田の後任として党県連会長に就任した<ref>『中日新聞』2000年9月2日付朝刊、県内版、20面、「自民党県連 新役員陣就任を承認 杉浦会長『風通し良く』と抱負」。</ref>
 
総選挙直後の6月28日、岡崎市においては中根鎭夫市長が6選出馬の意向を明らかにした<ref>『中日新聞』2000年6月29日付朝刊、西三河版、22面、「『新時代への使命と義務』 6選出馬表明 中根岡崎市長が明言」。</ref>。杉浦は先の総選挙で連日中根の応援を受けており、この時点で自民系市議の大半は中根に推薦状を出していた<ref name="chunichi20000722">『中日新聞』2000年7月22日付朝刊、西三河版、20面、「岡崎市長選 保守分裂の混戦へ 『6選阻止』で候補擁立 地元経済界有志ら“刷新の会”を設立 自民県議2人も参加」。</ref>。これに反発したのが青山秋男県議(自民党岡崎支部長)と柴田紘一県議(同党)であった。「5期でやめると言ったはずではないか」。二人は中根に直接会い「どなたか市長さんの推薦される方を出して下さい。私達は応援しますから」と説得にかかるが、「各種団体から多くの出馬要請を受けている以上、今さらやめるわけにはいかない」というのが中根の返事であった。反中根陣営は経済界を巻き込んで6選阻止に向けて動き始める<ref>『中日新聞』2000年8月15日付朝刊、西三河版、18面、「顔ぶれ出そろった岡崎市長選 複雑な構図 3つの疑問点 自民3人乱立にも調整役不在」。</ref><ref>{{Cite journal|和書
|author = 柴田紘一
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|volume =
|publisher = 岡崎文学会
}}</ref>。反中根陣営は経済界を巻き込んで6選阻止に向けて動き始める<ref>『中日新聞』2000年8月15日付朝刊、西三河版、18面、「顔ぶれ出そろった岡崎市長選 複雑な構図 3つの疑問点 自民3人乱立にも調整役不在」。</ref>。さらに7月5日、河澄亨市議が市長選の推薦依頼を自民党に提出<ref>『中日新聞』2000年9月11日、「市民の目線で行政を 岡崎市長に柴田市初当選 沈滞打破へ期待」。</ref>。杉浦は7月23日までに候補者一本化の調整を行うこととなっていたが、7月19日、中根は[[日本労働組合総連合会|連合]]愛知三河中地域協議会と政策協定を結び、推薦を受けたことを発表。青山と柴田は7月21日、[[岡崎商工会議所]]会頭ら[[財界]]関係者と協力して候補者擁立のための団体「新世紀の岡崎市政をつくる会」を発足させた<ref name="chunichi20000722" />。7月26日、同団体は全会一致で柴田の推薦を決め、杉浦も柴田支援を表明した<ref>『東海愛知新聞』2000年7月27日、1面、「柴田県議が出馬表明 岡崎市長選 『新世紀の会』の推薦受け」。</ref>。結局、自民党はいずれの候補者に対しても推薦を出さず、9月10日に行われた市長選で柴田紘一が初当選を果たした。保守3分裂という異例の事態となったことに対し、「もっと早くから収めればこんなことにはならなかった」と杉浦の調整力不足を非難する声も上がった<ref>『朝日新聞』2000年9月12日付朝刊、24面、「柴田紘一氏、劣勢覆す 多選批判、徹底して訴え 岡崎市長選/愛知」。</ref>。
 
[[2001年]][[4月14日]]、杉浦の発案による愛知政治大学院が開校。同大学院の学長に就任<ref>『中日新聞』2001年4月15日付朝刊、34面、「参加者 冷めた反応 自民愛知県連 政治大学院が開校」。</ref>。