「孝明天皇」の版間の差分

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傳役(養育係)は[[近衛忠煕]]が就き、1835年7月16日(天保6年6月21日)儲君。1835年11月8日(天保6年9月18日)、[[親王宣下]]により統仁親王となった。[[1840年]]4月16日(天保11年3月14日)、[[立太子]]の儀が行われ皇太子となり、1843年(天保14年)には侍講に[[中沼了三]]を迎えた。1846年2月21日(弘化3年1月26日)、仁孝天皇が崩御。3月10日(弘化3年2月13日)に[[践祚]]した。
 
1846年10月19日(弘化3年8月29日)、幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。翌・1847年4月23日(弘化4年3月9日)、学習所([[学習院 (幕末維新期)|学習院]])の開講式が行われた。6月8日(旧暦4月25日)、[[石清水八幡宮|石清水]][[臨時祭]]にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈った。10月31日(旧暦9月23日)、即位の大礼が行われた。11月4日(旧暦9月27日)、将軍である[[徳川家慶]]、世子である[[徳川家定]]の名代が[[京都所司代]]の[[酒井忠義 (若狭国小浜藩主)|酒井忠義]]と参賀した。[[改元|代始の[[改元]]は、1848年4月1日(弘化5年2月28日)に行われ、元号は[[嘉永]]となった。また、侍講の中沼了三を学習院の儒官に任命した。
 
1850年5月19日(嘉永3年4月8日)に「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺へ命じた。1853年(嘉永6年)、徳川家定の将軍宣下の勅使として下向した[[三条実万]]は[[阿部正弘]]より叡慮があれば幕府が沿うようにすると説明を受けた。1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、[[日米和親条約]]が締結された。5月2日(旧暦4月6日)、[[内裏]]が炎上した。黒船来航、大地震(改元後も大地震が続発し一連の地震は[[安政の大地震]]と呼ばれる)、内裏炎上と続いたため、1855年1月15日(嘉永3年11月27日)に元号を[[安政]]と改元した。