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テオファノの素性はよく知られていない。「酒を売っている親から生まれた」という記載が[[年代記]]にあることから、[[居酒屋]]の娘か[[葡萄酒]]商人の娘だと解釈されている<ref>井上(2009) P156-157</ref>。本名はアナスタソ(Anastaso)といった。庶民の娘であるテオファノがどういった経緯で[[皇太子]]であるロマノスと知り合ったかは不明である。このため様々な空想がなされており、ある歴史小説は、狩りの途中で瀕死の重傷を負ったロマノスがテオファノの父の家に担ぎこまれ、そこでテオファノに介抱された<ref name=inoue1>井上(2009) P157-158</ref>としている。また、東ローマ帝国では皇太子妃をコンクールで選ぶことがあったのではないかとされており、テオファノの場合もそれであった可能性もある<ref name=inoue1/>。956年前後に正式にロマノスと結婚し、その際にテオファノと改名した。
 
なお、[[ヨハネス・スキュリツェス]]の年代記によると、当時はロマノスの父、皇帝[[コンスタンティノス7世]]はレカぺヌス家から正帝の地位を取り戻して以降、生まれや功績による任官や昇進を嫌がっていたと記している。また、ロマノス2世は婚約していたイタリア王[[ウーゴ (イタリア王)|ウーゴ]]の娘が死去した後添えとしてテオファノと婚約した。
=== ロマノス2世の皇后として ===
959年に急死したロマノスの父、皇帝[[コンスタンティノス7世]]は、テオファノが毒殺したと噂された。しかしコンスタンティノスの死因は熱病であるし、毒殺の証拠もない。政治に興味のないロマノスは妻のいいなりで、何年もテオファノの操り人形であったとも言われている。遊び好きの夫ロマノスを支えてきたのが、父帝時代からの重臣である[[宦官]]の[[ヨセフ・ブリンガス]]と名将[[ニケフォロス2世フォカス|ニケフォロス・フォカス]]であった<ref>井上(2009) P159</ref>。
 
[[バシレイオス2世]]、[[コンスタンティノス8世]]という世継ぎを産み、宮廷の女主人となったテオファノは目障りだった小姑達(ロマノスの妹)を[[修道院]]へ追い払い、さらには姑である[[皇太后]]ヘレネも修道院へ入れるようロマノスに意見した。ロマノスもさすがにこれには聞く耳を持たず、修道院へ入った妹達に対しても宮廷にいた時と同じ生活が出来るよう配慮したが、ヘレネは娘達の不幸を嘆いて病死した。これは間接的にテオファノが姑を殺したようなものであった<ref>井上(2009) P160</ref>。
 
因みに、ヨハネス・スキュリツェスの年代記では、ヨセフ・ブリンガスと対立関係にあった皇太后ヘレネの異母弟である宦官バシレイオス・レカぺヌス(ソノス)はロマヌス2世の次男コンスタンティノスの寝室管理長官であったと記している。
 
963年3月15日、ロマノスは[[復活祭]]の最中であるにもかかわらず、道も無いような山奥へ狩りに出かけ、その最中の事故により26歳で急死した<ref>井上(2009) P161</ref>。再び、テオファノが毒殺したのではと噂されたが、夫が皇帝であったからこそ彼女は思うままに振る舞えたのであり、仮に毒殺しても何の得にもならないので、その可能性は低い<ref>井上(2009) P161</ref>。しかも彼女は、娘[[アンナ (キエフ大公妃)|アンナ]](のちの[[キエフ大公国|キエフ大公]][[ウラジーミル1世]]妃)を出産したばかりだった。
 
=== ニケフォロスとの結婚と皇帝暗殺への加担 ===
夫の死後、まだ幼い息子たち、5歳のバシレイオス2世と3歳のコンスタンティノス8世が共同統治帝として即位し、テオファノはその[[摂政]]となった。しかし彼女には、当時強大な権力を持っていた軍隊に対する影響力がなかった。軍隊は、[[タグマ|帝国中央軍・スコライ軍団]]の長官<ref>スコライ軍団の長官は事実上全東ローマ陸軍の司令長官の役割を担っていた。詳細は[[タグマ]]の記事を参照のこと。</ref>である将軍ニケフォロス・フォカスを皇帝として支持し、彼は幼い皇帝たちの後見になるとして、同年8月15日に[[コンスタンティノープル]]へ入城。バシレイオス・レカぺヌス等の協力もあって、ロマノスの寵臣で[[宦官]]のブリンガス派を市街戦で制圧し、彼は[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア]]で正式に戴冠した。そして彼は、自らの皇位を正当化するため、前の皇后テオファノと結婚した。
 
ニケフォロスは、テオファノの子供たちの守護者となり、彼なりに年の離れた美しい妻を愛していたという<ref>井上(2009) P169</ref>。しかしテオファノは、勇猛な軍人であり敬虔な[[キリスト教徒]]である堅物の夫を嫌った。彼女は、前夫ロマノスの死で失うはずだった自分の地位を保全するために、ニケフォロスの妻となったのだった。やがてテオファノは、若く実績がありながらニケフォロスに冷遇されていた将軍ヨハネス・ツィミスケス(ニケフォロスの甥)と愛人関係になった。2人はニケフォロスの暗殺を計画し、それを969年12月10日から11日の夜中に実行した。テオファノの手引きで[[コンスタンティノープル大宮殿|宮殿]]に乱入したヨハネスら暗殺者らは、眠りについていたニケフォロスを刺し殺した。その後、ヨハネスはすぐに宮殿の大広間の[[玉座]]に座り皇帝となった。