「大内義興」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 家督相続と内訌 ===
文明9年(1477年)、大内氏の第14代当主・大内政弘の子として生まれる{{Efn|常楽寺文書「大内殿御先祖次第」より。なお父・政弘は応仁元年(1467年)以来、応仁の乱の西軍方として京都に出陣して文明9年末まで領国には帰っておらず、日付が正しければ義興は大内氏の本拠地である山口ではなく京都で生まれたことになる。}}。[[幼名]]は'''亀童丸'''<ref name=大内系図/><ref name=氷上山上宮参詣目録 />。[[長享]]2年[[1月30日 (旧暦)|1月30日]]([[1488年]][[3月13日]])に京都にて[[元服]]し、将軍[[足利義尚]]から「義」の字を許されて「'''義興'''」の名を与えられた<ref group=注 name=蔭涼軒日録長享2年1月30日 />{{sfn|藤井崇|2014|p=35}}。
 
[[明応]]元年([[1492年]])、父の命令で[[六角高頼]]討伐([[長享・延徳の乱]])に参戦する{{sfn|福尾猛市郎|1989|p=36}}。ところが、その最中の明応2年([[1493年]])に[[管領]][[細川政元]]が将軍[[足利義材]]を幽閉する[[明応の政変]]が発生する。義興は兵を摂津国の[[兵庫津|兵庫]]に引き上げたまま事態の推移を見守っただけであった。この政変に関連して、細川政元派の武田元信の配下によって当時京都に滞在していた義興の妹が誘拐される事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)や父・政弘が義興の側近に切腹を命じる事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年8月4日条)などが発生しており、細川政元らが大内政弘が足利義材を支援することを恐れて人質を取って若年の義興に圧力をかけ、その対応の拙さが本国の政弘の怒りを買ったと推測される{{sfn|藤井崇|2014|pp=36&ndash;43}}。だが、一方でこの出兵が京都生まれの義興と本国の被官との関係構築に大いに寄与する事になり、家督継承後の義興の支配に資することになった{{sfn|藤井崇|2014|p=49}}。
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* [[飯田興秀|飯田'''興'''秀]]
* [[伊田興理|伊田'''興'''理]](伊田美作守、大内義隆期に奉行人となる)
* [[岩正興致|岩正'''興'''致]]
* [[大村興景|大村'''興'''景]]
* [[岡部興景|岡部'''興'''景]]([[岡部隆景|隆景]]の父)
* [[勝屋興久|勝屋'''興'''久]]([[相良正任]]の子で[[相良武任]]の実弟)
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* [[仁保興奉|仁保'''興'''奉]](興棟の子、[[仁保隆在|隆在]]の養父)
* [[仁保興棟|仁保'''興'''棟]]
* [[沼間興国|沼間'''興'''国]]
* [[野田興方|野田'''興'''方]](問田興之の実弟)
* [[原田興種|原田'''興'''種]]([[原田隆種|隆種]]の父)
* [[弘中興勝|弘中'''興'''勝]]([[弘中隆包|隆包]]の父)
* [[深野興房|深野'''興'''房]]
* [[右田興俊|右田'''興'''俊]]([[右田隆次|隆次]]の父)
* [[右田興量|右田'''興'''量]]([[右田氏]]、興俊と同族)
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* [[吉田興種|吉田'''興'''種]]([[仁保氏]]庶流、隆在の実父)
* [[鷲頭氏#その他|鷲頭'''興'''盛]]
 
 
 
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* [[小早川興景|小早川'''興'''景]]
* [[宍戸興家|宍戸'''興'''家]]([[宍戸氏#安芸宍戸氏|安芸宍戸氏]]当主、→[[宍戸元家]]の項を参照のこと)
* [[多賀谷興頼|多賀谷'''興'''頼]]
* [[野間興勝|野間'''興'''勝]]([[矢野城]]主、[[野間隆実|隆実]]の父)
* [[平賀興貞|平賀'''興'''貞]]
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* [[三隅興信|三隅'''興'''信]]([[益田氏]]一門)
* [[三隅興兼|三隅'''興'''兼]](興信の子)
* [[吉賀興光|吉賀'''興'''光]]
* [[吉見頼興|吉見頼'''興''']]?([[吉見氏]])
* [[吉見興成|吉見'''興'''成]](頼興の子、諱は成興とも、義興の娘・大宮姫は興成の弟・[[吉見隆頼|隆頼]]、隆頼の死後はその弟・[[吉見正頼|正頼]]の妻となる)