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=== 天守 ===
大坂城の天守は[[天正]]・[[寛永]]・[[昭和]]とこれまでに3度造営されている。いずれも外観は異なるが、昭和復興天守は寛永天守徳川大坂城の天守台を利用した復興天守となている。以下に詳細を記した。
 
==== 天正天守(豊臣大坂城天守 ====
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天守の復元案には、一番壮大で華やかな『[[大坂夏の陣図屏風]]』(黒田屏風)を元に、『大坂冬の陣図屏風』、『大坂城図屏風』などが参考にされている場合が多い。特に大坂夏の陣図と冬の陣図では天守の姿が大きく異なっているため、夏の陣のものは再建または改築されたものであるといい、それに沿った復元案も[[三浦正幸]]などから出されている。[[黒田長政]]によって作成された黒田屏風の姿に近い[[宮上茂隆]]の復元案は、大阪城天守閣内の豊臣大坂城再現模型のモデルになっている。
 
==== 寛永天守(徳川大坂城天守 ====
[[ファイル:Osaka Castle Keep tower(1627 - 1665).svg|thumb|160px|徳川大坂城天守(願生寺指図を元にしている。)]]
[[1626年]]([[寛永]]3年)竣工、[[1665年]]([[寛文]]5年)落雷により焼失。
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==== 昭和天守(復興天守 ====
[[1931年]]([[昭和]]6年)11月7日竣工。
 
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外観は『大坂夏の陣図屏風』を基に、大阪市土木局建築課の[[古川重春]]が設計、意匠は[[天沼俊一]]、構造は[[波江悌夫]]と[[片岡安]]、施工は[[大林組]]が担当した。設計の古川は、建築考証のために各地の城郭建築を訪ね、文献などの調査を行って設計に当たっておりその様子は古川の著書『錦城復興記』に記されている。
 
大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所や外観が異なるが、復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵を描いている。この折衷に対しては諸々の議論があり、豊臣時代もしくは徳川時代どちらかの形式に統一すべきとする意見もある。
 
1995年([[平成]]7年)から1997年(平成9年)にかけて、'''平成の大改修'''が行われた。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は[[阪神・淡路大震災]]級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。また、身体障害者や高齢者、団体観光客向けにエレベーターが小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられた。2007年(平成19年)の外壁の塗り替えの際には、5層目の塗装がより豊臣時代に近いデザインに改められた。
 
30年で焼失した天正豊臣大坂城天守、39年で焼失した寛永徳川大坂城天守に比べて、昭和復興天守は<!--建設後80年を越え、-->最も長命の天守となっており、1997年(平成9年)9月3日、国の[[登録有形文化財]]に登録された。
 
== 遺構 ==