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ちなみに、城氏は越後に土着した(越後城氏)が、[[治承・寿永の乱]]の際に[[平氏]]側へついたため、不遇をかこつこととなり、1201年(建仁1)、[[城資盛]]が起死回生を図って挙兵したがほどなく[[鎌倉幕府]]に滅ぼされ、[[城氏]]は途絶えた。
 
1218年(建保6)、幕府の有力御家人である[[安達景盛]]が出羽介に任ぜられ、秋田城介を称した。これは、秋田城介が武家にとって栄誉ある名跡となっていたためである。これ以後、鎌倉期を通じて[[安達氏]]が秋田城介を世襲した(安達泰盛が滅ぼされた霜月騒動は「秋田城介の乱」とも呼ばれる)。室町期には秋田周辺に勢力をはった[[安東氏]]が秋田城介を名乗った。
 
1575年(天正3)、[[織田信長]]の嫡男、[[織田信忠]]が秋田城介に補任された。信長の全国統一に向けた戦略の一環だろうと見られている。豊臣秀吉の治世下の1589年(天正17)、[[安東氏]]の後裔、[[秋田実季|安東実季]]は秋田城介を称するとともに[[秋田氏]]を名乗った(秋田の氏は秋田城介に由来する)。秋田氏は、関ヶ原の戦い後に常陸へ転封されたため秋田から生駒へ改氏したが、その後、秋田へ復氏し陸奥三春へ移されて[[明治維新]]に至った。
 
[[Category:令外官|あきたしようのすけ]]