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'''太閤'''(たいこう)
また[[出家]]した太閤のことを'''禅定太閤'''(ぜんじょう たいこう)、略して'''禅閤'''(ぜんこう)という{{sfn|和田英松|1983|p=48}}。
== 沿革 ==
古くは摂関・[[太政大臣]]現職者を指す尊称であった<ref>{{kotobank|1=太閤|2=デジタル大辞泉}}</ref><ref>{{kotobank|1=太閤|2=日本大百科全書}}</ref>。『[[西宮記]]』や『[[左経記]]』には在職中の摂関が太閤を称した記述があり、「関白太閤」と称されていた{{sfn|和田英松|1983|p=49}}。
摂政・関白を子弟に譲った者が「太閤」と呼ばれた例は[[平安時代]]からあった。例えば[[藤原道長]]は[[後一条天皇]]の摂政を息子[[藤原頼通|頼通]]に譲り、続いて任じられた[[太政大臣]]の職も辞任した後は「太閤」と呼ばれていた<ref>[[藤原実資]]『[[小右記]]』[[寛仁]]2年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]条</ref>。[[鎌倉時代]]の関白、[[二条良実]]は弟の[[一条実経]]に関白の地位を譲った後に引き続き[[内覧]]に任じられたことから「太閤」の名乗りを用いた<ref>『[[五代帝王物語]]』</ref>。その子孫である[[二条良基]]は13年にわたって関白を務めたことから、直接の血縁関係にない他家の当主が関白になった後も「太閤」を名乗って内覧として権勢を振い、その後3度も摂関に再任された。▼
▲摂政・関白を子弟に譲った者が「太閤」と呼ばれた例は[[平安時代]]からあった。例えば[[藤原道長]]は[[後一条天皇]]の摂政を息子[[藤原頼通|頼通]]に譲り、続いて任じられた[[太政大臣]]の職も辞任した後は「太閤」と呼ばれていた<ref>[[藤原実資]]『[[小右記]]』[[寛仁]]2年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]条</ref>。[[鎌倉時代]]の関白、[[二条良実]]は弟の[[一条実経]]に関白の地位を譲った後に引き続き[[内覧]]に任じられたことから「太閤」の名乗りを用いた<ref>『[[五代帝王物語]]』</ref>。
=== 豊太閤 ===
しかし近世以降、「太閤」といえば関白を甥の[[豊臣秀次]]に譲った後の[[豊臣秀吉]]のことを指すことが専らで、このことから「[[大師 (僧)|大師]]は[[空海|弘法]]に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」という[[格言]]までできるほどだった。<!--そのため「太閤」は固有名詞と誤解されがちだが、実際には先述の通り、前摂政や前関白などに対して普遍的に用いられた名詞である。--><!-- 重複蛇足 -->
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== 参考文献 ==
*{{cite book|和書|auther=和田英松|authorlink =和田英松 |author2 =所功(校訂)|authorlink2 = 所功|title=新訂 官職要解|publisher = 講談社|series =講談社学術文庫|year=1983|origyear =1902|isbn= 4-06-158621-1|ref=harv}}
*{{kotobank|1=太閤|2=日本大百科全書}}
==関連項目==
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