「仏印進駐」の版間の差分

1940年(昭和15年)9月27日、日本はイギリスと戦争状態にあったドイツおよび[[イタリア王国]]との間で日独伊三国条約を締結したことによって同盟関係を築き([[日独伊三国同盟]])、[[アメリカ合衆国]]の警戒心を招くことになった。アメリカは10月12日に三国条約に対する対抗措置を執ると表明、10月16日に[[屑鉄]]の対日禁輸を決定した。また援蒋ルートとしては[[イギリス領ビルマ]]の[[ビルマ公路]]などを利用することで、蒋介石への援助を続けた。この経済制裁政策はフランス領インドシナにも及び、フランス領インドシナ政府が求めていた武器支援をもアメリカ側は拒絶した{{sfn|立川京一|1998|pp=22-23}}。翌[[1941年]](昭和16年)に入ると、銅などさらに制限品目を増やした。
 
主要な資源供給先であるアメリカやイギリスの輸出規制により、日本は資源の供給先を求めることになった。対象としてあげられたのは[[オランダ領東インド]]であったが、連合国であるオランダ政府が日本への輸出規制に参加する可能性も懸念されていた<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410522b.html 昭和16年(1941年)5月22日第25回大本営政府連絡懇談会(議題:蘭領インドシナ交渉、対米国交調整その後の状況、国民政府承認)] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>。日本はオランダ領東インド政府に圧力をかけて資源の提供を求めたが([[日蘭会商]])、この行動はかえってオランダを英米に接近させることとなった{{sfn|小谷賢|2009|pp=123}}。1941年6月にはオランダ領東インド政府との交渉が決裂し<ref name="renrakukaigi">[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/pop_07.html 昭和16年(1941年)6月11日 第29回大本営政府連絡会議(議題:日蘭交渉)] - アジア歴史資料センターインターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>、陸海軍首脳からは資源獲得のために南部仏印への進駐が主張されるようになった<ref>[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410612a.html 昭和16年(1941年)6月12日 第30回大本営政府連絡懇談会(議題:南方政策促進ニ関スル件)] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>。経済的側面以外では、南部仏印はタイ、イギリス領植民地、そしてオランダ領東インドに軍事的圧力をかけられる要地であり、またさらなる援蒋ルートの遮断も行えると考えられた{{sfn|小谷賢|2009|pp=122-123}}。当時陸海軍は北部仏印進駐への反発が少なかったことからみて、南部仏印への進駐は、米英の反発を招かないという見通しを立てていた{{sfn|小谷賢|2009|pp=122-123}}。
 
松岡外相は当初、南部仏印の進駐を前提として交渉するのは得策ではないとしたが<ref name="renrakukaigi"/>、やがて強硬論に同調するようになり、6月25日の[[大本営政府連絡懇談会]]において南部仏印への進駐が決定された([[南方政策促進ニ関スル件]])<ref name="32kondankai">[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410625a.html 昭和16年(1941年)6月25日第32回大本営政府連絡懇談会(議題:南方政策促進決定、南部仏領インドシナ進駐)] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>。
 
ところが6月22日に勃発した[[独ソ戦]]の緒戦の状況が伝えられると、松岡外相は[[ソビエト連邦]]への攻撃を主張するようになり、南部仏印進駐の延期を主張して陸海軍首脳と対立するようになった<ref >[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410626a.html 昭和16年(1941年)6月26日第33回大本営政府連絡懇談会(議題:帝国国策要綱)] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>。松岡外相は、[[大本営]]陸軍部の『[[機密戦争日誌]]』にも「節操ナキ発言言語道断ナリ」「国策ノ決定実行ニ大ナル支障ヲ与フルコト少カラズ」と評されたあるように激しく批判され<ref name="36kondankai">[http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410630a.html 昭和16年(1941年)6月30日第36回大本営政府連絡懇談会(議題:帝国国策要綱閣議提出案、対独通告文、御前会議における外務大臣説明案)] - アジア歴史資料センター インターネット特別展「公文書に見る日米交渉」</ref>、結局、6月30日に原案通り南部仏印進駐を行うことが決定された<ref name="36kondankai"/>。
 
[[1941年]][[7月2日]]の[[御前会議]]において仏印南部への進駐は正式に裁可された。(『[[情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱]]』)。しかしイギリスはこの時点で仏印進駐の情報をつかんでおり、7月5日には駐日イギリス大使[[ロバート・クレイギー]]が日本の南進について外務省に懸念を申し入れている{{sfn|小谷賢|2009|pp=123}}。日本側は情報漏洩に驚き、進駐準備の延期を行ったが、イギリス側も日本を刺激することを怖れ、これ以上の警告を行わなかった{{sfn|小谷賢|2009|pp=123}}。7月14日には[[加藤外松]]駐仏日本大使がヴィシー政府副首相の[[フランソワ・ダルラン]]と会談し、南部仏印への進駐許可を求めた{{sfn|立川京一|1998|pp=21}}。ヴィシー政府は[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の意向を探ろうとしたが、おりしも駐仏ドイツ大使{{仮リンク|オットー・アベッツ|en|Otto Abetz}}は旅行に出かけており、不在であった。フランス政府はドイツ側と協議することなく、7月19日の閣議で日本側の要求を受け入れることを決定した{{sfn|立川京一|1998|pp=21}}。
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