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{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1994年|ノーベル経済学賞|非協力ゲームの均衡の分析に関する理論の開拓を称えて}}
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'''ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニア'''(''John Forbes Nash, Jr.'' [[1928年]][[6月13日]] - [[2015年]][[5月23日]]<ref name="20150525NJ"> {{cite news |title=Famed 'A Beautiful Mind' mathematician John Nash, wife killed in taxi crash, police say |last=Ma |first=Myles |publisher = NJ.com |url=http://www.nj.com/middlesex/index.ssf/2015/05/famed_a_beautiful_mind_mathematician_wife_killed_in_taxi_crash_police_say.html |date=2015-05-23 |accessdate=2015-05-23}}</ref>)は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人の[[数学者]]。専門分野は[[ゲーム理論]]、[[微分幾何学]]、[[リーマン多様体偏微分方程式]]の研究に関して大きで著名績を残す。ナッシュが[[ナッシュ均衡1994年]]を証明したことで[[ゲーム理論]]がの経済学への応用に関する貢献により[[ライフワンハルト・ゼルテン]]、[[ジョン・ハサニ]]思われるこ共に[[ノーベル経済学賞]]を、[[2015年]]に非線形偏微分方程式論もあその幾何解析への応用に関す貢献により[[:en:Louis_Nirenberg|ルイス・ニーレンバーグ]]と共に[[アーベル賞]]を受賞した。 [[微分幾何学]]では[[リム理論マン多様体]]の研究に従事していたのは博士課程在学中とその後のわずか数年間である大きな功績を残す
 
1959年から[[1994年統合失調症]]を患うようゲーム理論の経済学への応用に関する貢献によ[[ラインハルト・ゼルテン]][[ジョン・ハーサニ]]と共1960年代[[ノーベル経済学賞]]は精神病院に通いながら研究続ける。1970年ごろから寛解に向かい[[20151990]]非線形偏微分方程式論は症状が出なくなったされる。自身幾何解析への応用に関する貢献により[[:en:Louis_Nirenberg|ルイス・ニーレンバーグ]]と共に[[アーベル賞]]半生受賞し描い映画『[[ビューティフル・マインド]]』は、天才数学者としての偉業と成功、及び後の[[統合失調症]]に苦しむ人生を描いた作品である。
 
==経歴==
===幼少期 - 高校卒業===
{{出典の明記|date=2015年11月13日 (金) 04:20 (UTC)|section=1}}
[[1928年]][[6月13日]]生まれ。出生地は[[ウェストバージニア州]][[ブルーフィールド (ウェストバージニア州)|ブルーフィールド]]で、電気技術者の父と、[[英語]]及び[[ラテン語]]の[[教員|教師]]であった母の間に生まれた<ref name="Nasar1994">{{cite news|last1=Nasar|first1=Sylvia|authorlink1=Sylvia Nasar|title=The Lost Years of a Nobel Laureate|url=https://www.nytimes.com/1994/11/13/business/the-lost-years-of-a-nobel-laureate.html|website=[[The New York Times]]|access-date=May 1, 2019|location=Princeton, New Jersey|date=November 13, 1994}}</ref>{{要出典|範囲=幼い頃から、他人との共同作業を好まず、独りでいることを好み、また何事も自分の考えた方法で行うことを好む少年であった。|date=2019年4月}}
 
12歳の時、自室で[[科学]][[実験]]を行い始める。{{独自研究範囲|date=2015年11月13日 (金) 04:20 (UTC)|この頃既に、彼が非常に聡明な頭脳の持ち主であると家族や友人は気付いていたが、その知的聡明さゆえに友人からは拒絶され、また彼自身も友人たちが興じている[[ダンス]]や[[スポーツ]]が、自分の実験や勉強に対して悪影響を及ぼすものであると信じていたようである。}}
 
高校は地元のブルーフィールド・カレッジに進学。この頃、E.T. Bellの論文著書 [[:en:Men of Mathematics|"Men of Mathematics"]](邦題『数学をつくった人びと』ハヤカワ文庫)を読み、後の専門分野となる[[数学]]に興味を持つが、電気技術者の父の影響で[[化学]]や[[電気工学]]を専攻する<ref name="Nash1995"/>
 
===大学入学 - 博士号取得===
17歳の時、[[カーネギー・メロン大学|カーネギー工科大学]]に[[ウェスティングハウス|ジョージ・ウェスティングハウス]][[奨学金|奨学生]]として進学。入学当初は専攻が[[化学工学]]であったが[[化学]]に変更その後教員の勧めで[[数学]]に変更。選択科目で[[国際経済学]]を学び、[[経済学]]に対する興味を持つ。この大学で[[1948年]]に、[[学士|学士号]]を取得し、[[1948年]]には[[修士|修士号]]を同時に取得。
 
ナッシュは博士課程を[[プリンストン大学]]ですごすこととなるが、カーネギー工科大学での指導教官である{{仮リンク|リチャード・ダフィン|en|Richard Duffin}}がプリンストン大学へ送った推薦状には「'''He is a mathematical genius.(この男は数学の[[天才]]である。)'''」と書かれていた<ref>{{cite web |url=https://www.facebook.com/PrincetonU/photos/a.402851790773.195866.18058830773/10153451228495774/|title=A letter to Professor S. Lefschetz|publisher=[[Princeton University]]|accessdate=June 5, 2015 }}</ref> 。
 
===研究者としての最盛期===
[[プリンストン大学]]博士課程在学中は[[ゲーム理論]]の研究を行い、[[1950年]]、[[非協力ゲーム]]に関する[[博士論文]] ''"Non-cooperative Games"'' で[[Ph.D.]]([[博士号]]を取得。この論文は[[アルバート・タッカー|アルバート・ウィリアム・タッカー]][[教授]]の指導の下に書かれ、後に[[ナッシュ均衡]]と呼ばれる非協力ゲームにおける均衡解に関する定義と特性が含まれていた。この頃にナッシュはゲーム理論に関する以下の三つの論文を発表している。
*"Equilibrium Points in N-person Games" (1950年、科学[[雑誌]][[米国科学アカデミー紀要|PNAS]]にて発表)
*"The Bargaining Problem" (1950年[[4月]]、経済学雑誌[[Econometrica]]にて発表)
*"Two-person Cooperative Games" ([[1953年]][[1月]]、経済学雑誌[[Econometrica]]にて発表)
 
しかし、ゲーム理論の研究は着想としては興味深いものの、数学の博士号を得るには数学的に貧弱なものであったため、ゲーム理論に関する研究が博士論文として認められなかった場合に備え、ナッシュは当時から[[微分方程式幾何学]]の[[リーマン多様体]]への埋め込み問題の研究にも着手していた。ゲーム理論の研究が一通りまとまった博士課程修了後に、[[マサチューセッツ工科大学]]や[[ランド研究所]]でこちらの研究に本格的に取り組み、以下の重要な論文を残している。
*"Real algebraic manifolds"([[1952年]]、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表)
*"C1-isometric imbeddings"([[1954年]]、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表)
*"Analyticity of the solutions of implicit function problem with analytic data"([[1966年]]、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表)
 
実際、ナッシュ自身が「(ゲーム理論は)私の仕事の中で特につまらないもの」と評しているように<ref>"[http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/ A Brilliant Madness]" — a [[Public Broadcasting Service|PBS]] ''American Experience'' documentary</ref>、ナッシュの数学者としての評価を高めたのはゲーム理論に関する仕事ではなく、このリーマン多様体に関する仕事であった<ref name="Nasar1994"/>
 
[[1953年]]、当時の恋人であったエレノア(Eleanor Stier)との間に子供が生まれるが、結婚には至らなかった。
 
===闘病生活・快復===
1954年に[[サンタモニカ]]で逮捕されたこと(公衆トイレでの卑猥な行為)が原因で[[ランド研究所]]でのポストを失った<ref>{{cite news|title=John Nash, mathematician - obituary|url=https://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/11627306/John-Nash-mathematician-obituary.html|newspaper=The Telegraph|date=May 24, 2015|access-date=May 1, 2019}}</ref>。
{{出典の明記|date=2015年11月13日 (金) 04:20 (UTC)|section=1}}
1950年代の中頃に[[サンタモニカ]]で逮捕されたこと(公衆トイレでの卑猥な行為)が原因で[[ランド研究所]]でのポストを失った。この事件でのストレスから結婚を考え始め、[[1957年]][[2月]]に[[エルサルバドル]]出身でMITの学生であったアリシア(Alicia Lopez-Harrison de Lardé)と結婚する。
 
[[1957年]][[2月]]に[[エルサルバドル]]出身でMITの学生であったアリシア(Alicia Lopez-Harrison de Lardé)と結婚する<ref name="Nash1995">{{cite web|url= https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/economic-sciences/laureates/1994/nash-bio.html|title= John F. Nash Jr. – Biographical|last=Frängsmyr|first=Tore|date=1995|website=The Nobel Prize|publisher= Nobel Foundation|access-date= May 1, 2019}}</ref>。
[[1958年]]、アリシアが妊娠し、また、29歳の若さでMITの終身職員の権利を得る。しかし、この頃から異常な言動が目立ち始め、[[1959年]]に病院で検査を受けた結果、現在で言う[[統合失調症]]であると診断される。この頃、ナッシュは数学界最大の難問とも言われる[[リーマン予想]]の証明に専心しており、そのあまりの困難さが彼の精神をむしばむ要因となったとする見解を示す者もいる。
 
[[1958年]]、アリシアが妊娠し、また29歳の若さでMITの終身職員の権利を得る。しかし、この頃から異常な言動が目立ち始め、[[1959年]]に病院で検査を受けた結果、現在で言う[[統合失調症]]であると診断される<ref name="Nash1995"/>。この頃、ナッシュは数学界最大の難問とも言われる[[リーマン予想]]の証明に専心しており、そのあまりの困難さが彼の精神をむしばむ要因となったとする見解を{{誰範囲|date=2019年4月|示す者もいる}}
[[1959年]]、MIT職員を辞職し、ヨーロッパとアメリカを放浪する旅に出る。[[1960年]]にプリンストン大学に復帰し、病気の治療で入退院を繰り返しながらも数学の研究を再開した。この頃の病状は非常に重く、大学構内を無為に徘徊することもあり、「ファインホールのファントム」等と言われることもあった<ref>{{Cite book |和書 |title=ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡 |author=シルヴィア・ナサー |year=2002}}</ref>。
 
[[1959年]]、MIT職員を辞職し、ヨーロッパとアメリカを放浪する旅に出る。[[1960年]]にプリンストン大学近郊復帰し戻り、病気の治療で入退院を繰り返しながらも数学の研究を再開した<ref>プリンストン大学に正式に籍を置いていたわけではない。</ref>。この頃の病状は非常に重く、大学構内を無為に徘徊することもあり、「ファインホールのファントム」等と言われることもあった<ref>{{Cite book |和書 |title=ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡 |author=シルヴィア・ナサー |year=2002}}</ref>。
[[1963年]]にアリシアと離婚。しかし、アリシアは[[1970年]]にナッシュを夫としてではなく、同居人の形で引き取り、彼の闘病生活を支えることを決心した。この頃からナッシュの病状は少しずつ回復のきざしを見せ始める。
 
[[1963年]]にアリシアと離婚。しかし、アリシアは[[1970年]]にナッシュを夫としてではなく、同居人の形で引き取り、彼の闘病生活を支えることを決心した。この頃からナッシュの病状は少しずつ回復のきざしを見せ始める<ref name="Nasar1994"/>
 
[[1978年]]には[[カルトン・レンケ]]とともに[[ジョン・フォン・ノイマン理論賞]]を受賞する。この受賞対象となった仕事は後にノーベル経済学賞を受賞するナッシュ均衡に関する仕事と大枠では同一であるが、こちらは情報工学における見地から贈賞されている。
1990年代以降は形式上研究者として引退していたが、プリンストン大学の数学科の校舎にはナッシュの研究室があり、研究を続けていた。
 
[[1994年]]にゲーム理論に関する功績によりゼルテン、ハーサニとともに[[ノーベル経済学賞]]を受賞。[[1999年]]に[[マイケル・クランドール]]とともに[[スティール賞]]を受賞<ref>{{Cite web |url=http://www.ams.org/profession/prizes-awards/pabrowse?purl=steele-prize?SCR |title= Prize: Leroy P. Steele Prize for Seminal Contribution to Research - See more at: http://www.ams.org/profession/prizes-awards/pabrowse?purl=steele-prize?SCR#sthash.dGvnbGse.dpuf|accessdate=2015-06-21}}</ref>。この頃にはアリシアとの関係も元の状態に戻っており、[[2001年]]に再婚した。
 
[[1999年]]に[[マイケル・クランドール]]とともに[[スティール賞]]を受賞<ref>{{Cite web |url=http://www.ams.org/profession/prizes-awards/pabrowse?purl=steele-prize?SCR |title= Prize: Leroy P. Steele Prize for Seminal Contribution to Research - See more at: http://www.ams.org/profession/prizes-awards/pabrowse?purl=steele-prize?SCR#sthash.dGvnbGse.dpuf|accessdate=2015-06-21}}</ref>。
 
世界中の大学や学会で講演、指導を行い、[[1999年]]に[[カーネギーメロン大学]]から名誉博士号(科学技術)を、[[2003年]]に[[フェデリコ2世・ナポリ大学]]から名誉博士号(経済学)を<ref>{{cite web |url=http://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/2003/03/19/napoli-laurea-nash-il-genio-dei-numeri.html |title=Napoli, laurea a Nash il 'genio dei numeri' |date=March 19, 2003 |publisher=la Repubblica.it |first=Patrizia |last=Capua |language=Italian | accessdate =May 27, 2015}}</ref>、[[2007年]]に[[アントワープ大学]]から名誉博士号(経済学)を、[[2011年]]に[[香港城市大学]]から名誉博士号(科学)を<ref name="cs-slate-2001-12">{{Cite news |first=Chris |last=Suellentrop |title=A Real Number |url=http://www.slate.com/articles/arts/culturebox/2001/12/a_real_number.single.html |magazine=Slate |date=2001-12-21| archive-url = https://web.archive.org/web/20140104104531/http://www.slate.com/articles/arts/culturebox/2001/12/a_real_number.single.html| archive-date = 2014-01-04| dead-url = no| accessdate =May 27, 2015 }}</ref>、それぞれ贈られている。
ナッシュの[[精神障害]]は最初は[[偏執病]]の形となって表れ、後に彼の妻はそれを常軌を逸した振る舞いであったと記している。ナッシュは、赤いネクタイをした男はすべて、[[共産主義]]的陰謀に巻き込もうとしている者と信じていた。
 
ナッシュはワシントンDCの大使館に対して手紙を書き、共産主義者らが政府を設立しようとしていると訴えた<ref name="Nasar1994">{{cite news |last1=Nasar |first1=Sylvia |authorlink1=Sylvia Nasar |title=The Lost Years of a Nobel Laureate |url=http://www.nytimes.com/1994/11/13/business/the-lost-years-of-a-nobel-laureate.html?pagewanted=all |website=[[The New York Times]] |accessdate=May 6, 2014 |location=Princeton, New Jersey |date=November 13, 1994}}</ref>{{Sfn|Nasar Sylvia|2011|p=251}}。ナッシュの精神問題が彼の職業人生に影響を及ぼしたのは、1959年の[[コロンビア大学]]における[[アメリカ数学会]]の講義においてであった。それは[[リーマン予想]]の証明に関するものであったが、講義の内容は理解不能なものになっていた。この講義にて聴講者らは、彼は何かがおかしいとすぐに理解した<ref>{{cite book |title=Dr. Riemann's Zeros |first=Karl |last=Sabbagh |location=London |publisher=[[Atlantic Books]] |year=2003 |isbn=1-84354-100-9 |pages=87–88}}</ref>。
 
1959年4月、彼は{{仮リンク|マクリーン病院|en|McLean Hospital}}に入院し、5月までの入院となり、そこで彼は[[パラノイド型統合失調症]](paranoid schizophrenia)と診断された<ref>これは[[精神障害の診断と統計マニュアル]](DSM)によれば、「この障害を患っている人は、一般的に通常は安定してることが多く、時折パラノイド、白黒はっきりとした固定信条を持っており、想像力が過多もしくは非現実的。そして通常は、現実には存在していない何かを視覚的に捉えている」と記載されている。徴候としては、聴覚障害、視覚障害、生活意欲の欠如、軽度の[[うつ病]]などがある。{{cite web | url=http://www.brown.edu/Courses/BI_278/Other/Clerkship/Didactics/Readings/Schizophrenia.pdf | title=Brown University Didactic Readings: DSM-IV Schizophrenia (DSM-IV-TR #295.1–295.3, 295.90) | publisher=Brown University | accessdate=June 1, 2015 | pages=1–11}}</ref><ref name="Nasar ABM">{{Harvnb|Nasar Sylvia|2011|p=32}}</ref>。1961年、{{仮リンク|ニュージャージー州立トレントン病院|en|New Jersey State Hospital at Trenton}}に入院し<ref>{{MacTutor Biography|id=Nash}}</ref>、9年以上を[[精神病院]]で過ごし、そこで[[抗精神病薬]]と[[インスリン・ショック療法]]を受けた<ref name="Nasar ABM"/><ref name="Roger Ebert's Movie">{{cite book |last=Ebert |first=Roger |title=Roger Ebert's Movie Yearbook 2003 |publisher=[[Andrews McMeel Publishing]] |year=2002 |url=https://books.google.com/?id=HJGZOs4S4_EC |accessdate=July 10, 2008 |isbn=978-0-7407-2691-0}}</ref><ref name="Gracefully Insane">{{cite book |last=Beam |first=Alex |title=Gracefully Insane: The Rise and Fall of America's Premier Mental Hospital |publisher=[[PublicAffairs]] |year=2001 |url=https://books.google.com/?id=M2ZrduulEAwC |accessdate=July 10, 2008 |isbn=978-1-58648-161-2}}</ref>。
 
ナッシュは薬物療法を受けていたが、それにもかかわらずプレッシャーは薬受けてい使用するようにとの圧力のためであったと後に記している。1970年以降、彼は病院に通院しなくなり、また薬物を受けることも拒否した。ナッシュによれば、映画「ビューティフル・マインド」では新種の[[非定型抗精神病薬]]を取っていたとされているが、それは不正確だとしている。ナッシュは映画のシナリオライターが、この障害を持っている人々が映画によって服薬を中断することのないようにと、映画のシナリオライターに対し配慮を求めものだとしている<ref>Greihsel, Marika (September 1, 2004) [http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/economic-sciences/laureates/1994/nash-interview.html John F. Nash, Jr. – Interview]. Nobel Foundation Interview, September 2004.</ref>。ナッシュは抗精神病薬は過大評価されており、その副作用が十分に考慮されずに精神病患者に与えられていると感じていた<ref>Nash, John [http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/sfeature/sf_nash_11.html "PBS Interview: Medication"]. 2002。Nash, John [http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/sfeature/sf_nash_13.html "PBS Interview: Paths to Recovery"]. 2002。Nash, John [http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/sfeature/sf_nash_14.html "PBS Interview: How does Recovery Happen?"] 2002。</ref>。
 
ナッシュは、抗精神病薬を過大評価しており、また誰かが精神障害と判断されると、その副作用を十分に考慮されていないと感じていた<ref>Nash, John [http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/sfeature/sf_nash_11.html "PBS Interview: Medication"]. 2002。Nash, John [http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/sfeature/sf_nash_13.html "PBS Interview: Paths to Recovery"]. 2002。Nash, John [http://www.pbs.org/wgbh/amex/nash/sfeature/sf_nash_14.html "PBS Interview: How does Recovery Happen?"] 2002。</ref>。 映画の元となった書籍「ビューティフル・マインド」の著者である[[シルヴィア・ネイサー]]によれば、ナッシュは時間をかけて徐々に回復したという。
 
アリ映画の元となった書籍「ビューティフル・マインド」の著者である[[ルヴィ・ネイサー]]によれば、共産主義者と働いナッシュは時間をかけいる徐々に回復したのだという。その時期には、アリシアに元気づけられながら共に生活し、プリンストン大学数学科の面々は病気により天烈行動をころとしてるナッシュを受け入れてくれていたという。アリシアによると、ナッシュの寛解は周りのサポートよる「静かな生活を送る上で問題おかげす」あろうしてい<ref name="Nasar1994"/>。
 
ナッシュは、精神的不調が始まったのは1959年の序盤で、彼の妻が妊娠していた時であるとしている。彼はその過程を、「科学的な合理的思考から、精神医学的に『統合失調症』や『パラノイド統合失調症』とされるような人々の妄想的思考へと変化していった」と記している<ref name="Nash1995"/>Nash,。この時期のナッシュは、自身には特別な役割が備わっており、世界で最も重要な人物であるという誇大妄想に取りつかれていた。ナッシュがこのような思考に陥った要因として、自身の望んでいたほど周りの評価が高くなく、もっと認められたいという願望や、ナッシュ独自の科学的思考による過度なプレッシャーを感じていたことが、自身の言葉から示唆されている<ref>{{cite AV media |people=John Nash|date=2002|title=[[w:A Brilliant Madness|A Brilliant Madness]] (1995documentary) |medium=[http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/economic-sciences/laureates/1994/nash-bio.html[PBS]]|language=English|quote= "JohnPeople F.are Nashalways Jrselling the idea that people with mental illness are suffering. I Biographical"]think frommadness Lescan Prixbe Nobelan escape. TheIf Nobelthings Prizesare 1994not so good, Editoryou Toremaybe Frängsmyr,want [Nobelto Foundation],imagine Stockholm,something 1952better. In madness, I thought I was the most important person in the world.}}</ref>。その後、妄想や幻聴による思考を無駄な労力として自ら意識的に排除することで、徐々に症状が落ち着いていったという<ref name="Nash1995"/>。
 
== 脚注 ==
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