「サラエボ事件」の版間の差分

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暗殺の数時間後から、サラエボ市内やオーストリア=ハンガリーの他の地域で反セルビア暴動が発生し、暴動は軍が治安回復に動くまで収束しなかった{{sfn|Albertini|1953|pp=120-1}}。暗殺当日の夜、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]や[[クロアチア]]ではセルビア系住民に対する虐殺も行われた<ref>{{cite book|title=Reports Service: Southeast Europe series|url=https://books.google.com/books?id=QGtWAAAAMAAJ|accessdate=7 December 2013|year=1964|publisher=American Universities Field Staff.|page=44|quote=... the assassination was followed by officially encouraged anti-Serb riots in Sarajevo and elsewhere and a country-wide pogrom of Serbs throughout Bosnia-Herzegovina and Croatia.}}</ref><ref name="ProhićBalić1976">{{cite book|author1=Kasim Prohić|author2=Sulejman Balić|title=Sarajevo|url=https://books.google.com/books?id=QVdpAAAAMAAJ|accessdate=7 December 2013|year=1976|publisher=Tourist Association|page=1898|quote= Immediately after the assassination of 28th June, 1914, veritable pogroms were organised against the Serbs on the...}}</ref>{{sfn|Johnson|2007|p=27}}。それらの暴力行為は当時のボスニア・ヘルツェゴビナ総督{{ill2|オスカル・ポティオレク|en|Oskar Potiorek}}によって組織され、また扇動されていた<ref name="Novak1971">{{cite book|last=Novak|first=Viktor|authorlink=Viktor Novak|title=Istoriski časopis|url=https://books.google.com/books?id=To9pAAAAMAAJ|accessdate=7 December 2013|year=1971|page=481|quote=Не само да Поћорек није спречио по- громе против Срба после сарајевског атентата већ их је и организовао и под- стицао.}}</ref>。サラエボ市の警察は暴動を抑制するための努力を何もしなかった{{sfn|Mitrović|2007|p=18}}。小説家[[イヴォ・アンドリッチ]]は、サラエボの反セルビア暴動を「憎しみに満ちたサラエボの熱狂」と表現した{{sfn|Gioseffi|1993|p=246}}。サラエボ市では暴動初日に2人のセルビア人が殺害され、破壊または略奪されたセルビア人所有の住宅、店舗、学校、施設(銀行、ホテル、印刷所など)は合計で約1000軒にのぼった{{sfn|Donia|2006|p=125}}。
==裁判と判決==
==裁判と判決==
===サラエボ裁判(1914年10月)===
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==== 暗殺者グループ ====
[[File:Proces w Sarajewie s.jpg|thumb|250px|サラエボ裁判の様子(最前列に座る5人は左から: グラベジュ、チャブリノヴィッチ、プリンツィプ、イリッチ、ジョヴァノヴィッチ)]]
*{{仮リンク|ダニロ・イリッチ|en|Danilo Ilić}} - セルビア軍諜報部長[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ|ディミトリエビッチ]]率いる{{sfn|Biagini|2015|p=21}}{{sfn|Martel|2014|p=61}}[[民族統一大セルビア主義]]テロ組織「[[黒手組]]」のサラエボ支部メンバーであり{{sfn|Biagini|2015|p=21}}{{sfn|Martel|2014|ppp=61-62}}、大公フランツ・フェルディナントを殺害するための暗殺者グループを組織した{{sfn|McMeekin|2013|p=90}}。ボスニア系セルビア人であり教師として働いた経験があった{{sfn|Martel|2014|p=62}}。年齢は23歳でグループの中で最年長であった{{sfn|Clark|2012|p=84}}。
*{{仮リンク|ムハメド・メフメドバシッチ|en|Muhamed Mehmedbašić}} - 黒手組メンバーの[[ボシュニャク人]]であり、ヘルツェゴビナの没落貴族の息子であった{{sfn|Martel|2014|p=61}}。イスラム教徒で大工を職業としていた{{sfn|Clark|2012|p=84}}。
*{{仮リンク|ツヴィエトコ・ポポヴィッチ|en|Cvjetko Popović}} - サラエボに住む未成年のボスニア系セルビア人であり、イリッチによって暗殺者グループに加えられた{{sfn|Clark|2012|p=84}}。
*{{仮リンク|ヴァソ・チュブリロヴィッチ|en|Vaso Čubrilović}} - サラエボに住む未成年のボスニア系セルビア人であり、イリッチによって暗殺者グループに加えられた。年齢は17歳でありグループの中で最年少であった{{sfn|Clark|2012|p=84}}。兄の{{仮リンク|ヴェリコ・チュブリロヴィッチ|en|Veljko Čubrilović}}も逮捕され後に処刑された。
*[[ガヴリロ・プリンツィプ]] - セルビアの首都ベオグラードから暗殺に参加した未成年のボスニア系セルビア人。大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクを射殺した。暗殺実行グループの組織者であるダニロ・イリッチは、ボスニアにおける最も親しい友人であった{{sfn|Martel|2014|p=62}}。
*{{仮リンク|ネデリュコ・チャブリノヴィッチ|en|Nedeljko Čabrinović}} - プリンツィプと同じくベオグラードから暗殺に参加した未成年のボスニア系セルビア人。大公夫妻の殺害を狙って車列に爆弾を投げつけたが、暗殺は未遂に終わった。プリンツィプは数年来の友人であり、反オーストリア的な思想を共有していた{{sfn|Martel|2014|pp=50-51}}。
*[[トリフコ・グラベジュ]] - プリンツィプ、チャブリノヴィッチと同じくベオグラードから暗殺に参加した未成年のボスニア系セルビア人。ベオグラードでは一時プリンツィプと同居していた{{sfn|Martel|2014|p=53}}。
 
==== サラエボ裁判の経過 ====
死刑となる可能性がある成年の被告らは裁判中、自らの暗殺への関与は不本意であったと主張した。そのような被告の代表的な例は、事実上セルビア王国の諜報機関として活動していた民族主義組織「{{仮リンク|ナロードナ・オドブラナ|en|Narodna Odbrana}}」のエージェントであり、暗殺計画では武器輸送の調整役を務めた{{仮リンク|ヴェリコ・チュブリロヴィッチ|en|Veljko Čubrilović}}であった{{sfn|Biagini|2015|p=21}}。チュブリロヴィッチは、プリンツィプの背後には残虐な革命組織が存在したため、彼に従わなければ自分の住居は破壊され、家族は殺害されることになると恐れていたと述べた。なぜ法による保護を求めず、法によって裁かれる危険を犯したのかについて尋ねられた際に、チュブリロヴィッチは「私にとっては暴力の方が法律よりも恐ろしかった」と述べた{{sfn|Owings|1984|p=170}}。同じくナロードナ・オドブラナのエージェントであった{{仮リンク|ミハイロ・ジョヴァノヴィッチ|en|Mihajlo Jovanović}}も、大公の暗殺には反対していたと証言した{{sfn|Biagini|2015|p=21}}。
 
一方で、死刑を宣告されることがない未成年の被告らは、大公暗殺の全ての責任を自らに帰そうと試みた{{sfn|Biagini|2015|p=22}}。セルビア王国の官吏が暗殺に関与したとの告発に対して、ベオグラードから計画に参加した3人(プリンツィプ、チャブリノヴィッチ、グラベジュ)は裁判中、責任は自分たちにあると主張し続け、セルビア当局が追求されるのを避けようとした{{sfn|Albertini|1953|pp=50-1}}。その目的のため、3人は裁判前の供述とは異なる法廷証言を行っていた{{sfn|Albertini|1953|pp=50-1}}。詰問を受けたプリンツィプは、「私は[[ユーゴスラヴ主義]]者であり、すべての南スラブ人が統一されることを望んでいる。それがどんな形の国家になろうとも、オーストリアから自由である限りはどうでもよい」と述べた{{sfn|Owings|1984|p=56}}。その後、その望みをどのように実現しようとしているのかを尋ねられると、「テロによってだ」と回答した{{sfn|Owings|1984|p=56}}。一方でチャブリノヴィッチは、自らをオーストリア大公暗殺に駆り立てた政治思想はセルビア国内の党派から学んだものだったと証言した{{sfn|Albertini|1953|p=50}}。裁判では、セルビア当局が潔白であるとする被告らの主張は信用されなかった{{sfn|Albertini|1953|p=68}}。判決は、「本法廷は、証拠により証明されたものとして、ナロードナ・オドブラナならびにセルビア王国軍[[諜報]]部の双方が、共同でこのような凶行に及んだと見なす」と述べた{{sfn|Albertini|1953|p=68}}。
 
被告人に下された判決は以下の通りであった:{{sfn|Owings|1984|pp=527–530}}
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裁判中、チャブリノヴィッチは暗殺に参加したことに対する後悔を表明した。 判決が下された後、チャブリノヴィッチは孤児となった大公夫妻の3人の子供たちから、その罪を許す旨の手紙を受け取った{{sfn|Dedijer|1966|pp=345–346}}。懲役20年を言い渡されたチャブリノヴィッチとプリンツィプは、その後[[結核]]によって刑務所内で死亡した。オーストリア=ハンガリー法の下での懲役20年は、事件当時未成年(20歳未満)であった被告に対する最も重い刑罰だったが、プリンツィプの実際の生年月日については多少の疑いが存在したため、裁判では彼の年齢に関する議論が行われ、最終的にプリンツィプは暗殺時に20歳未満であったとの結論が下された{{sfn|Dedijer|1966|p=343}}。
 
===テッサロニキ裁判(1917年春)===
[[File:Dragutin-Dimitrijevic_Apis_Trial.jpg|thumb|[[テッサロニキ]]で裁判にかけられる[[黒手組]]指導者[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ|ディミトリエビッチ]]]]
1917年の初め、オーストリア=ハンガリーとフランスの間で秘密裏に和平交渉が行われた。それと並行して、オーストリア=ハンガリーとセルビアの間でも和平交渉が行われていたという情況証拠が存在する{{sfn|MacKenzie|1995|p=53}}。オーストリア皇帝カール1世は、[[テッサロニキ]]に亡命中のセルビア政府にセルビアの領地を返還するにあたっての主な条件を提示し、セルビア政府は、以後オーストリア=ハンガリー帝国に対してセルビアからの政治的動揺がもたらされることはないと保証すべきであると要求した{{sfn|MacKenzie|1995|p=72}}。
 
和平交渉のしばらく前から、セルビア王国の摂政[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル]]と彼に忠実な士官らは、[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ|ディミトリエビッチ]]を中心とする党派をアレクサンダルに対する脅威とみなしており、その排除を画策していた{{sfn|MacKenzie|1995|pp=56–64}}。オーストリア=ハンガリー帝国からの要求は、ディミトリエビッチ排除の動きにさらなる勢いを与えた。1917年3月15日、ディミトリエビッチと彼に忠実な士官らは、サラエボ事件とは無関係のさまざまな虚偽の罪状で起訴され、裁判にかけられた(1953年にセルビア最高裁で再審理が行われ、全員の潔白が証明された){{sfn|MacKenzie|1995|p=2}}。1917年5月23日、ディミトリエビッチと8人の同僚(計9人)に死刑が宣告された。他の2人には懲役15年が宣告された。被告の1人は裁判中に死亡し、彼への起訴は取り下げられた。その後、セルビア高等裁判所は2人の死刑判決を取り消し、さらにアレクサンダルが4人の死刑を減刑したため、最終的に死刑となったのは3人のみだった{{sfn|MacKenzie|1995|pp=344–347}}。事件当時にセルビア軍諜報部長だったディミトリエビッチは、自らが大公フランツ・フェルディナントの殺害を指示したことを裁判中に告白した{{sfn|Dedijer|1966|p=398}}。裁判中、計4人の被告がサラエボ事件への関与を告白しており、彼らへの最終的な以下の通りであった{{sfn|MacKenzie|1995|pp=329; 344–347}}。
[[File:Salonika Trial, after verdict.jpg|thumb|200px|テッサロニキ裁判の被告人(左端がディミトリエビッチ)]]
{| class="wikitable"
|-
! 被告人名
! 判決
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| [[ドラグーティン・ディミトリエビッチ]]
| 銃殺刑 (1917年6月26日執行)
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| {{仮リンク|リュボミル・ヴロビッチ|en|Ljuba Vulović}}
| 銃殺刑 (1917年6月26日執行)
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| {{仮リンク|ラデ・マロバビッチ|en|Rade Malobabić}}
| 銃殺刑 (1917年6月26日執行)
|-
| {{仮リンク|ムハメド・メフメドバシッチ|en|Muhamed Mehmedbašić}}
| 懲役15年 (のちに減刑され1919年に釈放)
|}
セルビアの首相{{仮リンク|ニコラ・パシッチ|en|Nikola Pašić}}は、ロンドンに居る使節に宛てた書簡の中で、ディミトリエビッチらへの死刑執行を正当化して、「ディミトリエビッチは、他のあらゆる罪に加えて、フランツ・フェルディナントの殺害を命令したのは自分であると認めたのだ。今や、誰にも刑の執行を延期することはできまい」と述べた{{sfn|MacKenzie|1995|p=392}}。
 
3人の死刑囚が処刑場まで車で連れて行かれた際、ディミトリエビッチは運転手に向かって次のように述べた。「はっきりさせておくが、私が今日、セルビアの銃弾によって殺されるのは、サラエボの一件を指示したというただそれだけが理由なのだ」{{sfn|Albertini|1953|pp=80–81}}
 
===テッサロニキ裁判(1917年春)===