「レイナード」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
27行目:
国際F3000では1989年に[[ジャン・アレジ]]がチャンピオンとなり、2年連続でチャンピオンマシンとなった。1990年はF1以外では初めての「横置きギアボックス」を投入してエアロダイナミクスで勝負を掛けたが、ライバルのローラを使用した[[エリック・コマス]]にチャンピオンを奪われた。しかし1991年([[クリスチャン・フィッティパルディ]])・1992年([[ルカ・バドエル]])・1993年([[オリビエ・パニス]])・1994年([[ジャン=クリストフ・ブイヨン]])・1995年([[ヴィンセンツォ・ソスピリ]])で5年連続でチャンピオンマシンとなる。
 
国際F3000の参戦費用の増加を防止する為に、1996年より[[国際自動車連盟]](FIA)がシリーズを[[ワンメイク]]化することを決定。複数のコンストラクターが入札に参加した結果ローラが落札したため、以後ローラ・[[ギブソン・テクノロジー#ザイテック・エンジニアリング|ザイテック]]([[ジャッド]])のワンメイクレースとなり、レイナードは国際F3000からの撤退を余儀なくされた。また、これにより大きな収入源を失った。
 
全日本F3000でも、1989年以降チャンピオン争いに加わることはできたが、レイナードが日本で2回目のチャンピオンマシンになるのはフォーミュラ・ニッポンとなった1996年まで待たねばならなかった。これはヨーロッパと日本のサーキットの舗装の違いや、各シリーズに供給されるタイヤが異質とも言える程の違いがあったためで、当時は(特にサスペンション周りについて)ヨーロッパ仕様とは別の「日本仕様」を製作・開発・供給する必要があった。エンジニアを日本へ直接派遣する等してマシンの戦闘力アップとセッティングを進めようとしたが、チャンピオンマシンになるには時間がかかった。