「ルイ=アレクサンドル・ベルティエ」の版間の差分

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[[イタリア遠征]]に従事し、[[ロディの戦い]]などで功績を上げた。1797年に[[カンポ・フォルミオ条約]]が締結されると、総裁政府に条約を承認させるためにパリに派遣された。1798年、イタリアに戻って[[ローマ共和国 (18世紀)|ローマ共和国]]の建国を指導し、続いて[[エジプト遠征]]に従事した。1799年、ナポレオンとともにフランスに帰国。同年11月9日の[[ブリュメールのクーデタ]]に関与し、陸軍大臣となった。1800年、ナポレオンは再びイタリアに遠征、6月14日、[[マレンゴの戦い]]で勝利した。この戦いにおいては予備軍の指揮を任されたが、実際にはナポレオンの参謀長として立ち働いた。その後、和平条約締結の責任者となった。
 
ナポレオンが皇帝に即位すると直ちに帝国元帥に列せられた。その後の諸戦争にも参加し、1806年にヴァランジャン公爵、ヌーシャテル大公爵に叙せられ、1807年には{{仮リンク|フランス帝国顕官|label=帝国顕官宮内長国民軍総司令|fr|Grands dignitaires de l'Empire français}}、[[護憲元老院|元老院]]議員に任じられた。[[半島戦争]]および対オーストリア戦争にも従事し、ヴァグラム大公爵に叙せられた。1808年には[[バイエルン国王|バイエルン王]][[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]の姪[[マリア・エリーザベト・イン・バイエルン|マリー・エリザベート・ド・バヴィエール]](1784年 - 1849年)と結婚し、3人の子供をもうけた。
 
=== ナポレオンとの決別 ===