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庄内藩の治水事業を追記
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=== 近世 ===
==== 庄内地方の灌漑・治水事業 ====
[[庄内地方]]は[[1583年]]の[[大宝寺義氏]]滅亡後、領主の変遷を経て、[[上杉景勝]]の領有となった。景勝の重臣で東禅寺城代の[[甘粕景継]]は[[1591年]](天正19年)、最上川の支流である相澤川と田澤川の合流点下流に平田揚を設け、大町までの[[溝渠]]を開鑿した<ref>{{cite web |url=http://o-machikou.jp/gaiyou/index.html |title=大町溝土地改良区の概要 |publisher=水土里ネット大町溝 |accessdate=2017-09-16}}</ref>。この溝渠は[[大町溝]]と呼ばれ、後の「最上川疏水」の原型ともなった。
 
[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]の後、庄内地方は[[最上義光]]の[[山形藩]]が領有した。義光は庄内地方の灌漑整備を進め、義光配下で狩川城主の[[北楯利長]]は[[1612年]](慶長17年)に[[北楯大堰]]を開鑿した。北楯大堰は、最上川が庄内平野に出る付近で合流する立谷沢川より取水し、山麓に沿って盛土処理である堰台を建設して低地である庄内平野に導水して流下させる[[用水路]]である。この北楯大堰によって庄内地方の農地は急速に拡大し、集落も次第に形成されていった。
 
[[1622年]]の[[最上騒動]]で最上氏が改易された後の庄内地方は[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]]にはじまる[[庄内藩]]が領有し、灌漑整備は幕末まで庄内藩のもとで進められた。江戸時代初期は、河道が南北に蛇行していたため{{Refnest|group="注釈"|当時の河道は、{{Quotation|茨野新田街道下より小牧の東を南流し新堀落野目に沿い西流し北に折れて大宮の東より五丁野一貫野を貫き四ツ興屋下に至り更に南流し漸く西に赴き鵜渡川原青原寺裏に沿い酒田城大手前近く河岸通を流れ海口に注ぎしものの如し|飽海郡誌<ref name=akumigunshi>{{国立国会図書館デジタルコレクション|1181955/103|飽海郡誌. 巻之2|format=EXTERNAL}}</ref>(仮名は平仮名に改め)}}と描かれており、現在の酒田市郊外で幾度も南北に大きく蛇行していたことがわかる}}、[[1650年]]([[慶安]]3年)から3年をかけて落野目から大宮まで幅30[[間]](約54m)、長さ50間(約90m)の新流路が開削された<ref name=akumigunshi />。さらに[[1670年]]([[寛文]]10年)から[[1674年]]([[延宝]]2年)にかけて、[[郡代]]高力忠兵衛らによってさらに下流側の新河道が開かれ、幅20間(約36m)、長さ28町(約3km)にも及ぶ新川が完成した<ref name=akumigunshi />。しかし、その後も洪水は度重なり、江戸時代を通じておおむね7年に1度の頻度で洪水が発生し、大小の普請が行われた。
[[1622年]]の[[最上騒動]]で最上氏が改易された後の庄内地方は[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]]にはじまる[[庄内藩]]が領有し、灌漑整備は幕末まで庄内藩のもとで進められた。
 
==== 内陸地方の灌漑事業 ====
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これに輪を掛けて綱憲の浪費などが祟り米沢藩は莫大な負債を抱える様になり、八代藩主・[[上杉重定]]は[[江戸幕府]]への領地返上を一度は決意した程藩は困窮してしまった。重定は養子として[[日向国]][[高鍋藩]]主・[[秋月種美]]の二男を迎え、九代藩主とした。この養子こそ[[上杉治憲]]、号して'''上杉鷹山'''である。[[細井平洲]]を招聘して質素倹約と減税、[[殖産興業]]の推進を図り、内には保守的な重臣を粛清して藩政の大改革を実施した。
 
治憲が最も重要視したのは新田開発による収入の増加であり、これを補完する為の用水路整備を実施した。この灌漑整備で活躍したのが治憲によって登用された米沢藩勘定頭・'''[[黒井忠寄|黒井半四郎]]'''である。半四郎は[[1794年]]([[寛政]]6年)より「'''黒井堰'''」の建設に着手、上堰と下堰の二方向に分水を行って農業用水の導水を行った。上堰は総延長約5里(約20.0km)、下堰は総延長約4里(約16.0km)の用水路であり、6年の歳月を掛けて[[1800年]](寛政12年)<ref>{{Refnest|group="注釈"|横山昭男「上杉鷹山」(吉川弘文館)では寛政8年完成とする</ref>。}}に完成した。更に[[飯豊山地]]の豊富な雪解け水を利用する為、[[荒川 (羽越)|荒川]]の支流である玉川から置賜白川へ導水する為の「'''飯豊山穴堰'''」が[[1798年]](寛政10年)より建設に着手され、20年の歳月を掛け[[1818年]]([[文政]]元年)に完成した。こうした灌漑設備の整備によって米沢藩は次第に財政が回復、治憲は「中興の英主」として後世に称えられた。
 
==== 河道整備 ====
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=== 近代治水整備 ===
最上川は中流部から下流部に掛けて[[最上峡]]や「三難所」のような狭窄部が続き、さらに激しく[[蛇行]]していた。加えて春季の[[融雪]]などで水量が豊富な上に河況係数(最大流量と最小流量の差。大きいと水害の危険が高い)が大きく、一旦大雨が降ると水害に悩まされた。だが直江兼続の石堤や最上義光の開鑿工事のほかは江戸時代を通じ大規模な治水事業は行われておらず、融雪洪水や豪雨・[[台風]]による水害が流域に度重なる被害を与えていた。<ref>{{Refnest|group="注釈"|中流域に位置する[[天領]]であった[[寒河江市]]の当時の記録によれば、洪水によって蛇行した流路を掘割によって直行させる「瀬替」や堤防築立と補強、川岸に杭を打つ「乱杭打」が郡中助合普請や自普請によってたびたび行われている<ref>『寒河江市史』中巻p.589-590</ref>。}}。
 
明治時代に入ると、最上川にも欧米各国の近代河川工法が導入され、治水事業が本格的に実施されるようになった。契機となったのは[[1909年]](明治42年)4月の融雪洪水である。[[1919年]](大正6年)、[[内務省 (日本)|内務省]]による直轄改修計画がスタートしたが最大の懸案は最上川と[[赤川]]の分離である。山形県第2の河川である赤川はかつては[[酒田市]]で最上川に合流する最上川水系の支流であった。[[1921年]](大正10年)に「'''赤川放水路建設事業'''」が着手され、最上川に合流していた赤川は直接[[日本海]]に向かって分流させるようにした。赤川[[放水路]]は[[1936年]](昭和11年)に通水したが旧流路である旧赤川はそのまま最上川に注ぐ形で残された。
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* 『[[六十余州名所図会]]』([[歌川広重]])[[1854年]]([[安政]]元年)から[[1856年]](安政3年) - 「最上川 月山遠望」
 
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== 出典 ==
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== 関連項目 ==