「太平洋戦争」の版間の差分

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[[1931年]](昭和6年)に[[満州事変]]が起こり、[[関東軍]]の後押しによる[[満洲国]]が成立すると国際社会の中で日本は大きく非難されることとなる。その後も関東軍は、華北を中華民国から引き離すための華北の傀儡自治政権をつくる工作を行った。そして、[[中華民国]]は日本軍部に対する対抗する軍事力をたくわえていく。
[[1937年]](昭和12年)に勃発した[[日中戦争]]において、[[大日本帝国]]政府と軍部は当初、現地解決や不拡大方針によって事態の収拾を試みた。しかし、[[大日本帝国憲法]]の規定である[[統帥権|統帥権の独立問題]]や、[[五・一五事件]]、[[二・二六事件]]以後から行われるようになった[[軍部]]による政治干渉、[[大紅門事件]]、[[蘆溝橋事件]]とそれに呼応して起きた[[郎坊事件]]、[[広安門事件]]、[[通州事件]]、[[第二次上海事変]]などにより在中[[邦人]]の中国軍や中国人に虐殺される事件が頻発すると、世論は中国を徹底的に叩くべきという方向に傾く([[暴支懲]])。この結果、政府は軍事行動を主張する陸軍・海軍を抑えきることが難しくなり、情勢は日中両軍による大規模な全面衝突に発展する。[[日本軍]]は[[北京市|北京]]や[[上海市|上海]]など主要都市を占領、続いて[[中華民国]][[国民政府|政府]]の[[首都]][[南京市|南京]]を陥落させた。1937年8月26日に、日本海軍によるものとされる英国大使襲撃事件である[[ヒューゲッセン遭難事件]]が起きると、英国新聞は日本に対する怒りを顕わにした<ref>[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A03023907800?IS_STYLE=default 北支事変に関する各国新聞論調概要 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023907800、各種情報資料・北支事変関係情報綴其ノ三(国立公文書館)」]</ref>。1937年10月、国際連盟は日本を[[九ヶ国条約|九国条約]]及び[[不戦条約]]の侵犯であると決議した<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=DnrRNAfof54C&pg=frontcover 朝日東亞年報 昭和十三→十六年版] P.369-370 朝日新聞 1941年</ref>。同年11月3日には[[ブリュッセル]]で九国条約会議が開かれ、英国は自身が首唱し指導した国際議定によって、それまでソ連により行われていた[[国共合作#第二次国共合作|第二次国共合作]]中の[[蒋介石]]への支援に参加した<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=d-peW0JVQxYC&pg=frontcover 日支事変外交観] P.396 本多熊太郎 1938年</ref>。1937年12月には、[[パナイ号事件]]と[[レディバード号事件]]も起きた。
{{main|トラウトマン和平工作}}
1937年11月から翌1938年1月にかけて、[[中独合作]]により中華民国と友好関係にあったドイツを仲介者とする[[トラウトマン和平工作]]が日中間によって行われたが、12月の南京陥落によって日本側では対中強硬論が政府(内閣総理大臣[[近衛文麿]]・外務大臣[[広田弘毅]])と海軍([[海軍大臣]][[米内光政]])にて台頭。一方、陸軍では[[陸軍省]]([[陸軍大臣]][[杉山元]])こそ政府・海軍と同じく強硬派であったが、[[多田駿]]陸軍中将を筆頭とする[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]は終始日中和平交渉の継続を強く主張。参謀本部の要請によって日露戦争以来の[[御前会議]]が開かれるなどしたが、政府・海軍および陸軍省の圧力を受け、1月15日に政府は最終的に交渉の打ち切りを決定。翌日16日に[[第1次近衛内閣|近衛内閣]]は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」との声明を発し([[近衛声明#第一次近衛声明|第一次近衛声明]])、トラウトマン和平工作は頓挫した。