「平島義寛」の版間の差分

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|死没=[[文政]]11年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]([[1828年]][[9月27日]])<ref>『足利家系譜』阿南市立阿波公方・歴史民俗資料館蔵</ref>
|改名=利丸(幼名)→義寛
|別名=左衛門([[仮名 (通称)|通称]]
|戒名=興正院殿天山道栄大居士<ref>『足利家系譜』阿南市立阿波公方・歴史民俗資料館蔵</ref>
|墓所=[[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]等持院北町の[[等持院]]墓地<ref>『足利家系譜』阿南市立阿波公方・歴史民俗資料館蔵</ref>
|主君=
|藩=
|氏族=[[平島公方|平島足利]]
|父母=父:[[足利義根]]<br>母:猶([[西洞院時名|西洞院風月]]の養女、[[貝塚卜半]]の娘)
|兄弟=
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== 生涯 ==
第9代[[平島公方]][[平島義根]]の子として[[阿波国]]平島に生まれる。義根は京都の文人と交流が多く何かと物入りのため、[[文化 (元号)|文化]]2年([[1805年]])に藩主[[蜂須賀治昭]]に加増願いを出したが断られたことなどから、阿波を出て京都に移り足利に復した。『[[系図纂要]]』では、義寛が父と同行したかについてや、本人および子の没年については触れていない。
 
義寛は父と同行し京都に移り、その後[[桜井家]]に仕えたという説<ref>平島足利は西洞院家や桜井家と縁戚でもあった</ref><ref>『徳島県史』第3巻 P.9</ref>もある。
 
== 脚注 ==
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* 徳島県史編さん委員会編 『徳島県史』第3巻 [[徳島県]] 1965年
 
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{{DEFAULTSORT:ひらしま よしひろ}}
[[Category:平島公方足利|よしひろ]]
[[Category:江戸時代徳島藩武士人物]]
[[Category:1797年生]]
[[Category:1828年没]]
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