「足利藤氏」の版間の差分

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| 幕府 = [[室町幕府]]
| 主君 =
| 氏族 = [[足利氏]][[古河公方]]
| 父母 = 父:[[足利晴氏]]、母:[[簗田高助]]の娘
| 兄弟 = '''藤氏'''、[[足利義氏 (古河公方)|義氏]]、[[足利藤政|藤政]]、[[足利輝氏|輝氏]]、[[足利家国|家国]]
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だが、謙信が藤氏を残し越後に帰国すると直ちに北条氏は反撃を開始し、その年の[[10月]]には古河を攻撃したので、藤氏は里見氏家臣の[[多賀信家]](蔵人・高明)が治める[[上総国|上総]]池和田城([[千葉県]][[市原市]])へ逃れた。以後、古河を巡って上杉と北条は争奪戦を繰り広げ、藤氏も上杉方の代表として古河に入ったり上総に脱出したりを繰り返した。だが、永禄5年([[1562年]])に北条軍が古河御所を攻略した際に藤氏は捕虜となって小田原に送られた。
 
その後藤氏の身柄は[[相模国|相模]]・[[伊豆国|伊豆]]といった北条領内を転々としたとされるが、永禄9年(1566年)以降はその消息が不明である。北条氏康によって[[暗殺]]されたともいわれている。
 
足利藤氏を失ったことにより、上杉謙信の関東経営は大打撃を受け、後に[[越相同盟|北条氏との同盟]]締結をもって古河公方である[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]を謙信は正式に認めざるを得なくなる。一方で、藤氏の弟の[[足利藤政|藤政]]、[[足利輝氏|輝氏]]、[[足利家国|家国]]が古河公方の再興を目指し活動した形跡も確認されているが、その影響力は微々たるものであり、[[天正]]年間を境にその活動はみられなくなる。
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== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
*[[足利氏]]
 
{{先代次代|[[古河公方]]|歴代に含めず|[[足利晴氏]]|[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]}}
 
{{Japanese-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:あしかか ふしうし}}
[[Category:関東足利氏公方|ふしうし]]
[[categoryCategory:関東古河公方足利家|ふしうし]]
[[Category:下総国の人物]]
[[Category:古河市の歴史]]
[[Category:消息不明となった人物]]
[[Category:16世紀没年不詳]]
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