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ヘンヒェンの音楽家としてのキャリアは[[ドレスデン聖十字架合唱団]]のメンバーとして始まった。15歳の時にはすでにカントル (教会音楽家、ドイツ語名称kantor) として指揮台に立っていた。17歳の彼は、[[ヨハン・アドルフ・ハッセ]]の[[レクイエム]]を復活させたことにより幅広い注目を集め た。その後ヘンヒェンはドレスデン王立音楽院(Musikhochschule Dresden)で指揮と声楽を学ぶ。 [[オーストリア]]の[[カリンティア]]夏の音楽祭、または[[ベルリン]]でマスタークラスに参加し、後に[[バイロイト音楽祭]]にて、リハーサル そして [[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]の指揮するコンサートに立会う。
 
ヘンヒェンは1966年に初めての音楽監督としての契約を[[ハレ (ザレ)|ハレ]]市の合唱団(Robert-Franz-Singakademie)と、指揮者としての契約をハレ・フィルハーモニック オーケストラと結ぶ。
 
1989年から2014年まで[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ室内管弦楽団]]を率いる。