「アーサー・パーシバル」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[士官学校]]などのような軍人養成学校の出身ではなく、一兵卒から叩き上げて将軍になった人物である。[[第一次世界大戦]]には当初、兵士として従軍していたが、1916年の[[ソンムの戦い]]の際に初級幹部である少尉に任官した。翌年の1917年には、29歳で大隊長([[佐官]]クラス)となる。すぐ後には旅団指揮を任されるにいたった。戦後は[[アイルランド]]における騒擾の鎮圧で頭角をあらわした。[[アイルランド共和軍]](IRA)から暗殺対象として何度も狙われた<ref>{{Cite news|url=http://www.sankei.com/world/news/170205/wor1702050038-n1.htmllhtml|title=日本びいきのアイリッシュ 大戦「シンガポール陥落」…首都では日本領事囲み祝賀会|work=|newspaper=[[産経新聞]]|date=2017年2月5日}}</ref>。サンドハースト、[[ロシア]]、[[ナイジェリア]]などに駐在し、1936年から英領[[マレー]]に勤務。
 
1939年、フランス派遣軍の参謀長に就任。第43師団長として1940年5月[[ダイナモ作戦]]に参加し、帰国後は第44師団長として英国本土の沿岸防備に専念。1941年4月{{仮リンク|イギリス極東軍司令部|en|British Far East Command}}(司令官:{{仮リンク|ロバート・ブルック=ポッパム|en|Robert Brooke-Popham}}空軍大将)隷下の{{仮リンク|マラヤ司令部|en|Malaya Command}}司令官となった。パーシバルはマレー駐屯軍の6個師団への増強と航空支援を要求したが、配下にあったのは訓練が不十分な2個師団半のみであった。1942年2月に[[シンガポールの戦い|シンガポールが陥落]]し、[[山下奉文]]率いる[[日本軍]]に約8万の残存兵と共に投降した。マレー半島で投降した5万人と合わせ、これは英国史上最大規模の降伏だった。初めての軍司令官勤務での敗戦を経験した後、捕虜となって[[台湾]]や[[満州]]で抑留された。