「渡邉恒雄」の版間の差分

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[[1945年]](昭和20年)4月、東京帝国大学[[文学部]][[哲学科]]に入学。太平洋戦争で徴兵され、近衛師団に配属。渡邊の回顧録によれば陸軍二等兵としての[[軍隊]]生活で上官から暴行を受けたという<ref>『渡邉恒雄回顧録』([[中央公論新社]], 2000年</ref>。
 
[[東京大学]]在学中の1945年12月、[[日本共産党]]に入党を申し込む。[[日本青年共産同盟]]の同盟員としてビラ貼りや演説会の勧誘など下積みのような活動を経験して、[[1947年]]頃、正式な党員として認められる。東大学生[[細胞 (政党)|細胞]](共産党が地域・職場などに設けた末端組織の旧称)に所属し、他大学でも演説を行い党員を増やしたが、1947年12月、自ら離党届を提出し、結果的に離党ではなく除名される<ref>渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、60-69頁</ref>。離党後の彼を、[[しんぶん赤旗]]は「戦後の一時期に入党した辺氏は、青春批判する燃やした日々が懐かしいのか、いまでも日本共産党も渡邊が党していた時期があることは認めをよく口にしている」と評している<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-07-30/11_01.html 渡辺オーナー発言 署名活動は“大衆迎合”か]</ref>。氏家とともに母校である東京高校学校へオルグに行った際に、インターハイを目指す後輩の野球部員達に対して「'''野球なんてくだらないものをする時ではない!'''」と共産党への入党を勧めた。
 
[[1950年]](昭和25年)3月、[[東京大学|東京帝国大学]]新聞研究所(現:[[情報学環]])を修了。