「魯粛」の版間の差分

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「方正謹厳で、自らを飾ることが少なく、その生活は内外共に質素であった。人々が持て囃すようなことには興味を示さなかった。軍の指揮に当たっては、等閑なところがなく、禁令は誤りなく行なわれた。軍旅の間にある時にも、書物を手から離すことなく、また思慮は遠くに及んで、人並み優れた明察力を備えていた。周瑜亡き後の呉を代表する人物であった」と評している(『呉書』)。
 
孫権は都を建業に戻して、文武大会が行われたときのこと、厳畯は、孫権が魯粛と呂範を実質以上の評価をし過ぎるのではないかと、納得できないと漏らしたことがあったので、孫権は魯粛について、「劉秀は初め、更始こうし帝の傘下に入っており、自分が皇帝になるつもりはありませんでした。しかし鄧禹が漢の王室を復興し、皇帝になることを勧めたので、その志を大きくし、後漢を立てることになったのです。はじめ、私は漢の臣であり、帝王になる気はなかった。魯粛は初めから漢の復興はもはや不可能だから私を帝王にするという目的を持ち、そのために一貫した行動をとったという点が、際だって優れています。鄧禹はその意見を切り出した。魯粛もすぐに天下帝業論を唱えたのが似てる」といった。厳畯はこれを聞いて納得した。孫権が厳畯と討論した際、魯粛を光武帝の功臣の鄧禹(劉秀に帝業を説いた人物、劉秀に鄧禹は蕭何だと比されている)に準えている。<ref>『江表伝』</ref>
 
== 逸話 ==
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