「信陵君」の版間の差分

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=== 帰国 ===
[[紀元前248年]]、信陵君のいない魏は連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国するように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとせず、度重なる使者に対て食客達に「使者を通した者は斬る」と指示したため、誰も諌められなかった。そうしているある日、毛公と薛公屋敷に訪れてきた。信陵君は「先生方屋敷まで来られずとも、私の方から出向きますのに」といったが「いや、今日は諌めに参った」と返された。続いて毛公と薛公は「信陵君、人は忘れなければならないことと、忘れてはならないことがあります。貴方が恩を施したことは忘れなければなりません。逆に恩を施されたことは忘れてはなりません。貴方は祖国の窮地を見てみぬ振りをされているが、今があるのは祖国あってこそであり、その危機を見ないふりをすれば一生不義の者といわれるでしょう」と諌められ、信陵君はこれを全聞く間も無く魏へ帰国する。翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会した。信陵君は魏の上将軍に就任し、諸国にそれを知らせると、諸国は一斉に魏へ援軍を送った。そして五ヶ国の軍をまとめて秦の[[蒙ゴウ|蒙驁]]([[蒙恬]]の祖父)を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが伺える。そして連合軍はついに[[函谷関]]に攻め寄せて秦の兵を抑えた。これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』と呼ばれた。
 
=== 失脚 ===