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韓国に帰化した方子は李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育(主に[[知的障害児]]・[[肢体不自由児]])に取り組んだ。趣味でもあった[[七宝焼]]の特技を生かしソウル七宝研究所を設立し自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、[[李氏朝鮮]]王朝の宮中衣装を持って世界中を飛び回り王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立する。なお、"明暉"は李垠の、"慈恵"は方子自身のそれぞれの雅号である<ref name="yomi198207">1982年7月17日 読売新聞「[世界の中の日本人]韓国で福祉活動する李王朝“最後の王妃”李方子さん」</ref>。方子の尽力は韓国国内でも好意的に受け止められており<ref name="yomi198207"/>、やがて功績が認められ、[[全斗煥]]大統領政権下の[[1981年]](昭和56年)には、韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。
 
また、終戦後の混乱期に韓国に残留したり、急遽韓国に渡った、様々の事情を抱えた日本人妻たちの集まり、'''在韓日本人婦人会「芙蓉会」'''(ふようかい)の初代名誉会長を勤めた。また前述の福祉活動や病気治療のため度々来日し、[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]、[[上皇明仁|皇太子明仁親王]]・[[皇后美智子|皇太子妃美智子]](当時)を始めとする日本の[[皇族]]とも会い、戦後の[[皇室]]との交流を設ける機会はあった。
 
[[1989年]](平成元年)[[4月30日]]逝去<ref>2009年4月27日 [[産經新聞]]「【から(韓)くに便り】ソウル支局長・[[黒田勝弘]] 故・李方子さんのこと」</ref>、享年87。葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準[[国葬]]として執り行われ、日本からは[[三笠宮崇仁親王]]・[[崇仁親王妃百合子|同妃百合子]]夫妻が参列した。後に韓国[[国民勲章]]槿賞<!-- 無窮花章の誤り? -->(勲一等)を追贈された。