「ロミー・シュナイダー」の版間の差分

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[[1953年]]、14歳で寄宿学校を卒業。ほどなく母マグダ・シュナイダーの主演映画『[[再び白いライラックが咲いたら (映画)|再び白いライラックが咲いたら]]』に出演する話がもち上がり、カメラテストに合格、マグダの娘役でドイツ映画界にデビュー。このデビュー作のみ、ロミー・アルバッハ=シュナイダーの名を使っている<ref name="佐々木34">佐々木、p.34</ref><ref name="ユルクス20-21,242">ユルクス、pp.20-21,p.242</ref>。<ref name="佐々木31-34">佐々木、pp.31-34</ref><ref name="ユルクス18-19">ユルクス、pp.18-19</ref><ref name="ザイデル54-77">ザイデル、pp.54-77</ref>{{#tag:ref|この後、マグダ・シュナイダーの映画出演作のほとんどは娘ロミーとの共演作である<ref name="佐々木200">佐々木、p.200</ref>。|group=#}}(以下、「ドイツ」は当時の[[西ドイツ]]、「[[ベルリン]]」は[[西ベルリン]]のこと)
 
順調に役がつき、3作目の『[[女王さまはお若い]]』で主役の[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]役に抜擢される<ref name="佐々木35">佐々木、p.35</ref><ref name="ユルクス26">ユルクス、p.26</ref>。翌[[1954年]]、同じ[[エルンスト・マリシュカ]]監督でオーストリア皇后[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]を演じたオーストリア映画『プリンセス・シシー』が大ヒット。全ヨーロッパで2500万人を動員し<ref name="佐々木43">佐々木、p.43</ref>、ロミーは16歳にして一躍ヨーロッパ映画界のトップスターとなる。{{#tag:ref|日本では『プリンセス・シシー』は[[1959年]]に当時の[[上皇明仁|皇太子]]御成婚記念映画として封切られたが、興行的にふるわず、2・3は公開されなかった<ref name="佐々木44,322">佐々木、p.44,322</ref>。|group=#}}しかし、固定化された(ロミー曰く)「お粥みたいにくっついて離れない」<ref name="佐々木52">佐々木、p.52</ref>“ロミー・シュナイダー=シシー”のイメージは生涯にわたってロミーを苦しめることになる。
 
これ以降、ロミーのドイツ、オーストリアでの出演作の役は大衆向け娯楽作の甘い無害な歴史ロマンスのヒロインや清純な乙女といったものばかりになり、女優としての成長を望むロミーはしだいに苛立ちを感じるようになる<ref name="佐々木44">佐々木、p.44</ref><ref name="ザイデル141-164">ザイデル、pp.141-164</ref>。しかしステージママ化した母マグダと継父の実業家[[ハンス・ヘルベルト・ブラッツハイム]] ([[:de:Hans Herbert Blatzheim|Hans Herbert Blatzheim]]) (莫大なロミーのギャラを自身の事業に投資していたが後に破産<ref name="佐々木127,132-133">佐々木、p.127,pp.132-133</ref><ref name="ユルクス60,107-108">ユルクス、p.60,pp.107-108</ref><ref name="ザイデル377-378">ザイデル、pp.377-378</ref>)は[[1956年]]『[[若き皇后シシー]]』、[[1957年]]『[[ある皇后の運命の歳月]]』とロミーをシシーの続編に出演させた。後に「『シシー・Ⅱ』の出演が決まったと聞かされたとき、目の前が真っ暗になった」<ref name="ザイデル145">ザイデル、p.145</ref>とまでロミーは語っているが、嫌々演じたというのに、この2作も大ヒットしてしまう<ref name="佐々木46-53">佐々木、pp.46-53</ref>。