「勝海舟」の版間の差分

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{{main|江戸開城}}
[[File:Saigo Takamori-1.jpg|thumb|東京都港区芝五丁目にある「江戸開城 西郷南洲・勝海舟会見之地」の碑(2018年3月29日撮影)]]
慶応4年(明治元年、[[1868年]])、[[戊辰戦争]]の開始および[[鳥羽・伏見の戦い]]で幕府軍が敗北し[[官軍]]の東征が始まると、幕府の要職を罷免された[[勝海舟]]身分を越えた友人にまでなった最後の老中'''[[板倉勝静]]'''によって最後の陸軍総裁にまで起用されていく。幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順を慶喜が[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]に罷免、海舟は[[1月17日 (旧暦)|17日]]に[[海軍奉行]]並、続いて[[1月23日 (旧暦)|23日]]に徳川家の家職である[[陸軍総裁]]に昇進、[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]に陸軍取扱という職に異動され、恭順姿勢を取る慶喜の意向に沿いフランスとの関係を清算した後、会計総裁となった一翁らと朝廷の交渉に向かうことになった{{efn|後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担うという説明があるが、松浦はこの説を否定、若年寄に任命された旗本集団([[浅野氏祐]]・[[川勝広運]]ら)が事実上幕府の全権を担い(後に一翁も若年寄に就任)、海舟は若年寄を辞退し彼らの下に置かれている事実を強調している。一方、不平分子を退散させるため、[[新選組]]の[[近藤勇]]・[[土方歳三]]らに[[甲陽鎮撫隊]]と改称させ[[甲府城]]へ向かわせ、[[古屋佐久左衛門]]率いる[[衝鋒隊]]を別方面に出発させている<ref>{{Harvnb|石井|1974|pp=166-167}}、{{Harvnb|半藤|2008|pp=28-41}}、{{Harvnb|松浦|2010|pp=340-341, 808-809}}</ref>。}}。官軍が[[駿府城]]にまで迫ると、早期停戦と[[江戸城]]の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。
 
まず3月9日、[[山岡鉄舟]]を駿府の西郷隆盛との交渉に向かわせて基本条件を整えた。この会談に赴くに当たっては、江戸市中の撹乱作戦を指揮し奉行所に逮捕されて処刑寸前の薩摩武士・[[益満休之助]]を説得して案内役にしている<ref group="注釈">例えば高橋敏の『清水次郎長と幕末維新』(岩波書店、2003年)などで[[清水次郎長]]とその配下に護衛を依頼したとする説を一次資料を提示しない「通説」としてとりあげているが、高橋自身も賛同はしておらず『清水次郎長とその周辺』の増田知哉や[[藤田五郎 (歴史学者)|藤田五郎]]、村本喜代作、長谷川昇、戸羽山翰も同様である旨を明記しておく。また海舟と次郎長について交際のあった一次資料はない。同じ3月に街道警護役を伏谷如水から押し付けられた件と混同している向きもある。</ref>。予定されていた江戸城総攻撃の[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]の直前の[[3月13日 (旧暦)|13日]]と[[3月14日 (旧暦)|14日]]には海舟が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた<ref>{{Harvnb|石井|1974|pp=137-179}}、{{Harvnb|半藤|2008|pp=41-55}}、{{Harvnb|松浦|2010|pp=323-368}}</ref>。
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