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{{otheruses|北宋の儒学者|魏晋南北朝時代の詩人|張載 (西晋)|}}
[[Image:Chang Tsai.jpg|thumb|250px|張載・『晩笑堂竹荘畫傳』より]]
'''張 載'''(ちょう
== 略伝と性格 ==
「天地のために心を立て、生民のために道を立て、去聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く」という語で察せられるように、豪傑の性質を持つ。若い頃は兵法を好み、政治に情熱を燃やしたが、[[范仲淹]]に諭され『[[中庸]]』を授けられたのをきっかけに儒者に転じた。仏教・老荘の教えに一時心酔したが、嘉祐元年([[1056年]])に国都・[[開封]]で甥にあたる程氏兄弟([[程顥]]・[[程頤]])と出会い、儒者としての自信を確立したという。それまで虎の皮に座って『[[易経|易]]』の講義をしていたのが、二程氏の『易』論を聴いて感服し、潔く虎皮を撤去して、門人たちを二程氏に師事させたという逸話がある。
== 思想 ==
張載は『易』『中庸』に依拠し、万物の生成を陰陽二気の集散によって説明し、「[[太虚]]」をその本体とした。太虚は無形であり、気は有形だがこの両者は一物両体、太虚即気という緊密な関係にあるという気一元の哲学を樹立した。太虚と気による二元論は[[周敦頤]]より発展しているが、「太虚」説は宋学の主流とはならなかった。ただし、[[王陽明]]や[[王夫之]]、日本の[[大塩平八郎]]には大きな影響を与えている。
人間性を「気質の性」と「天地の性」の両面から考えることを提唱し、道徳の淵源は
主著として『正蒙』『西銘』『東銘』『経学理窟』『易説』などのほか若干の詩文と語録があり、『張氏全書』に一括して収められている。
== 評価 ==
1960年代の中国においては、哲学史上、宋学を[[唯物論]]・客観[[唯心論]]・主観唯心論に分類していた。そして、朱子学にあたる客観唯心論や、陽明学にあたる主観唯心論に対して、張載の創始した唯物論が高く評価される傾向にあった。ナショナリズムや中華人民共和国のイデオロギーを背景に、張載とその影響を受けた[[王夫之]]は哲学史上の最重要人物として扱われることとなったのである
もっとも、[[島田虔次]]は、哲学史の実態に即して考えれば、やはり客観唯心論と主観唯心論の対立こそが宋学の中心であり、唯物論の系譜は相対的な重要性は低いと述べている
== 脚注 ==
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