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道の狭さから[[ゴミ収集車]]も立ち入れず、地区全体が回収作業の対象とされない場合、さらに衛生状態を悪化させる要因になっている。いくつかのスラムは、ゴミ処理場の近くや中に作られており、ゴミの[[リサイクル]]で生活費を稼いでいる。
 
=== 日本江戸・東京のスラム ===
[[江戸時代]]から[[明治時代]]にかけて[[江戸]]・東京の三大貧民窟と呼ばれていたのは、下谷万年町(現・[[台東区]][[東上野]]四丁目)、芝新網町(現・[[港区 (東京都)|港区]][[浜松町]]二丁目)、四谷鮫河橋(現・[[新宿区]][[若葉 (新宿区)|若葉]])であり<ref>[http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_x1_d02.html 東京の都市下層社会と「細民」住居論]『都市と技術』石塚裕道、国連大学出版局・国際書院、1995年 </ref>、いずれも徳川時代の旧[[非人]]系の被差別部落に起源があった<ref>川元祥一・藤沢靖介『東京の被差別部落』p.119、三一書房、1984年</ref>。その他には、深川の霊岸、麻布の新網町、浅草の玉姫町、本所の三笠町などが著しい貧民窟として知られていた<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764098/283 東京の貧民窟]『東京学』石川天崖(育成会, 1909)</ref>。明治20年代には、調査された地域においてだけでも、東京には少なくとも115の貧民窟があった<ref>[http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/another_win/x1_d03_p068_h01.html 旧市域における都市下層の分布の変化]『都市と技術』中川清、国連大学出版局・国際書院、1995年 </ref>。1897年の調査では、下谷万年町で875戸、芝新網町で532戸、四谷鮫河橋谷町で1370戸の細民長屋が確認されていたが、日露戦争後に地価が高騰すると貧民は[[日暮里]]や[[三河島]]など場末の細民街への移転を余儀なくされた。[[1923年]]には[[関東大震災]]で場末の細民街の多くも壊滅し、東京市外に移る者も現れた。