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阿房列車、青字に
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出典
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{{出典の明記|date=2013年3月|ソートキー=人1971年没}}
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{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]、日本語の文字セットにない漢字}}
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'''內田 百閒'''(うちだ ひゃっけん、[[1889年]]([[明治]]22年)[[5月29日]] - [[1971年]]([[昭和]]46年)[[4月20日]])は、[[夏目漱石]]門下の[[日本]]の[[小説家]]、[[随筆家]]。本名:內田 榮造。戦後、筆名を'''內田 百閒'''と改める。別号は'''百鬼園'''(ひゃっきえん)。
 
「百&#38290;」は、故郷岡山にある[[旭川 (岡山県)|旭川]]の緊急放水路である[[百間川]]から取ったもの。戦時中、[[中里介山]]とともに[[日本文学報国会]]への加入を拒んだことでも知られている<ref>http://www.sanyonews.jp/article/848703</ref>。また、芸術院会員になることも拒否した
 
幻想的な小説や、独特なユーモアに富んだ[[随筆]]などを得意とした。後輩の[[芥川龍之介]]に慕われた<ref>[[芥川龍之介]]「[http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/4312_33645.html 内田百間氏]」『芥川龍之介全集 第十五巻』[[岩波書店]]、1997年1月。</ref>。代表作には『冥途』『[[阿房列車]]』『ノラや』などがある<ref>http://www.shinchosha.co.jp/sp/writer/930/</ref>。
 
== 年譜生涯 ==
{{年譜のみの経歴|date=2013年4月5日 (金) 01:44 (UTC)}}
* [[1889年]]([[明治]]22年)[[5月29日]] - [[岡山市]](現在の[[中区 (岡山市)|中区]])古京町一丁目百四十五番地に裕福な[[造り酒屋]]「志保屋」の[[一人っ子|一人息子]]として誕生。祖父の名から「榮造」と命名。父:久吉、母:峯。
* [[1895年]](明治28年) - 環翠小学校(現在の[[岡山市立旭東小学校]])入学。岡山市岡山高等小学校(現在の岡山市立内山下小学校)入学。
* [[1899年]](明治32年) - 岡山県立岡山高等小学校(現在の[[岡山下小朝日高等学校]])入学。
* [[1902年]](明治35年) - 岡山県立岡山中学校(現在の[[岡山県立岡山朝日高等学校]])入学。
* [[1905年]](明治38年) - 父・久吉死去。実家の志保屋倒産。以後、経済的に困窮する。
[[第六高等学校 (旧制)|第六高等学校]](現在の[[岡山大学]])卒業。[[東京大学|東京帝国大学]]文科大学入学。文学科独逸文学専攻。
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* [[1912年]]([[大正]]元年) - 中学時代の親友であった堀野寛の妹、堀野清子と結婚。
* [[1913年]](大正2年) - 夏目漱石著作本の校正に従事。長男久吉生まれる。
* [[1914年]](大正3年) - 東京帝国大学独文科を卒業。[[漱石山房]]では後輩の[[芥川龍之介]]と親交を深める<ref>http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000168888</ref>。芥川龍之介から慕われた。長女多美野生まれる。
* [[1916年]](大正5年) - [[陸軍士官学校_(日本)|陸軍士官学校]][[ドイツ語]]学教授に任官(陸軍教授高等官八等)。
* [[1917年]](大正6年) - 「夏目漱石全集」(岩波書店)校閲に従事。
* [[1918年]](大正7年) - [[海軍機関学校]]ドイツ語学兼務教官を嘱託される。同校英語学教官であった芥川の推薦による。
* [[1920年]](大正9年) - [[法政大学]]教授(予科独逸語部)に就任。祖母・竹が死去。
* [[1921年]](大正10年) - 短編小説「冥途」等を「新小説」に発表。次女美野生まれる。
* [[1922年]](大正11年) - 処女作品集『冥途』(稲門堂書店)刊行。
* [[1923年]](大正12年) - [[陸軍砲工学校]]附陸軍教授を命ぜられる。[[関東大震災]]に罹災。前年刊行の『冥途』の印刷紙型を焼失。同震災により機関学校も崩壊焼失したため、嘱託教官解任。
* [[1924年]](大正13年) - 三女菊美生まれる。
* [[1925年]](大正14年) - 陸軍士官学校教授を辞任、家族と別居。
* [[1927年]]([[昭和]]2年) - 陸軍砲工学校教授依願免官。
* [[1929年]](昭和4年) - [[東京市]][[牛込区]](現在の[[東京都]][[新宿区]])の合羽坂に転居(佐藤こひと同居)。[[中野勝義]]の懇請を受けて法政大学航空研究会会長に就任
* [[1931年]](昭和6年) - 航空部長として、学生の操縦による[[青年日本号]]訪欧飛行を計画・実現。なお、出発日は自分の誕生日であった
* [[1933年]](昭和8年) - [[随筆]]集『[[百鬼園随筆]]』(三笠書房)を刊行、重版数十を重ねベストセラーとなる。
* [[1934年]](昭和9年) - いわゆる「[[法政騒動]]」を機に法政大教授を辞職<ref>『東京朝日新聞』 1934年1月12日</ref>。百{{CP932フォント|閒}}を追い出した陣営には[[森田草平]]や[[関口存男]]がいた。以後文筆業に専念。
* [[1936年]](昭和11年) - 長男・久吉死去(24歳)
* [[1939年]](昭和14年) - [[日本郵船]][[嘱託社員|嘱託]]となる( - 1945年)。同年[[台湾]]旅行。百{{CP932フォント|閒}}原作・[[古川緑波]]主演で映画「ロッパの頬白先生」製作。
* [[1942年]](昭和17年) - [[日本文学報国会]]への入会を拒否。
* [[1945年]](昭和20年) - [[東京大空襲]]により東京都[[麹町区]]土手三番町(現在の[[千代田区]][[五番町 (千代田区)|五番町]])の居宅焼失。隣接する松木男爵邸内の掘立小屋に移住。後年、このころの日記を『東京焼&#30433;(東京焼尽)』として発表。
 
* 以下戦後/[[1948年]](昭和23年) - 東京都千代田区[[六番町 (千代田区)|六番町]]6に三畳間が3つ並んだ新居、通称「三畳御殿」が完成。『新方丈記』。
* [[1950年]](昭和25年) - [[大阪]]へ一泊二日旅行。これをもとに小説『特別阿房列車』執筆。以後『阿房列車』はシリーズ化、[[1955年]]まで続き、百&#38290;の戦後代表作となる。
* [[1952年]](昭和27年) - 鉄道開業80周年を記念して,[[東京駅]]一日駅長に就任。
* [[1957年]](昭和32年) - 愛猫「ノラ」が失踪。『ノラや』をはじめとする随筆を執筆
* [[1959年]](昭和34年) - 小説新潮に『百鬼園随筆』を連載開始。死の前年まで続く
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== エピソード ==
* 執筆においては[[旧字]]・[[旧仮名]]遣いを固守し続け、没後においてもこれを守り通していた。言葉遣いのわずかな違いにも厳しかったことは、弟子の[[平山三郎]]『百鬼園先生雑記帳』(三笠書房)<ref>著者平山三郎は、関連著作が『実歴阿房列車先生』(下記)、『阿房列車物語』(論創社)、『詩琴酒の人 百鬼園物語』([[小沢書店]])など多数著した。<br> また『現代の随想2 &#194580;田百&#38290;集』(彌生書房、1981年(昭和56年))を編み、旺文社文庫で手紙・座談と『回想の百鬼園先生』を編んでいる。</ref>での一文からも窺い知ることができる。生誕百年に当たる[[1989年]]([[平成]]元年)になり、弟子の[[小説家]][[中村武志 (小説家)|中村武志]]の判断によって、著作権者の遺族の許可の下に、[[文庫本|文庫]]に限っては特殊なものを除いて新字・新仮名遣いで発行されるようになった。
* 岡山での幼少時の思い出を幾度も書き、阿房列車の旅では国鉄[[岡山駅]]の[[プラットホーム|ホーム]]を必ず踏み、窓から風景を凝視するほどであった。[[大手まんぢゅう]]をはじめ、岡山故郷の食べ物にも愛着を持っていた。しかし「移り変わった岡山の風景は見たくない」「大切な思い出を汚したくない」として、1942年(昭和17年)の恩師の葬儀(駅からタクシーで乗りつけ帰路はそのままとんぼ返りした)以外は決して岡山に帰ろうとはしなかった。死後、遺志により分骨されて先祖代々の墓に納められ、やっと帰が叶うこととな里に戻った。