「日蘭関係」の版間の差分

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一方、1942年(昭和17年)3月の内に日本軍はジャワ島内で蘭印軍66,219名を含む連合軍82,618名を捕虜としたほか<ref>内訳は、蘭印軍66,219名、[[オーストラリア軍]]4,890名、[[イギリス軍]]10,626名、[[アメリカ軍]]883名。</ref>、民間人9万人余も収容した。彼らは自分達が東インド住民を懲罰するために設けた監獄に自ら入れられるという屈辱を味わった。オランダ人兵士の一部は[[長崎市|長崎]]の捕虜収容所に送られ、そこで[[長崎市への原子爆弾投下|原爆]]に被爆した。また、日本軍がオランダ人女性を強制連行し[[慰安婦]]にした[[白馬事件]]も起こった。終戦後、オランダは捕虜虐待などの容疑で多くの日本軍人を[[BC級戦犯]]として処罰した(連合国中で最も多い226人の日本人を処刑)。
 
戦後長らく反日感情は残り、[[1971年]](昭和46年)に[[昭和天皇]]がオランダを訪問した際には街中に「裕仁は犯罪者」という落書きが見られ、卵や魔法瓶が投げつけられ手植え苗を引き抜かれるという嫌がらせがあった<ref>昭和天皇はこのときの思いを込めて、「戦にいたでをうけし諸人のうらむをおもひ深くつつしむ」という短歌を詠んでいる。</ref>。[[1986年]](昭和61年)には[[ベアトリクス (オランダ女王)|ベアトリクス女王]]の訪日計画がオランダ国内世論の反発を受けて中止された。1989年(平成元年)の昭和天皇の[[大喪の礼]]の際も、多くの君主国が王族を派遣したもののオランダからは王族が葬儀に参列することはなかった。[[1991年]](平成3年)に来日した女王は宮中晩餐会で「日本のオランダ人捕虜問題は、お国ではあまり知られていない歴史の一章です」と、この間の事情の一端について触れた。同年、[[海部俊樹]]首相がオランダ訪問した際には、戦没者慰霊碑に捧げた花輪が池に投げ捨てられており、いかに反日感情が根強かったかが窺える。しかしその後、終戦後50年にあたる[[1995年]](平成7年)に出された[[村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」|村山談話]]をきっかけに「平和友好交流計画」が決められ、[[女性のためのアジア平和国民基金|アジア女性基金]]による償い事業などの実施により、オランダ国民の対日感情も和らいだ<ref>{{Cite news |title= 聞き取り・オランダ事業ー準備と意義 池田維|newspaper= |date= 2006-02-06|author= アジア女性基金|url= http://www.awf.or.jp/pdf/k0019.pdf|accessdate= 2014-09-29}}</ref>。日蘭交流400周年を記念して、[[2000年]](平成12年)に[[上皇明仁|明仁天皇]]が訪問した際には、オランダのテレビ番組で献花の様子が放映され、昭和天皇の訪問のときとは打って変わって熱烈な歓迎を受けた。
 
ただ、[[2007年]]([[平成]]19年)にはオランダ議会下院で日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める[[オランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議|慰安婦問題謝罪要求決議]]がなされた。[[2008年]](平成20年)に訪日した[[マキシム・フェルハーヘン]]外相は、「法的には解決済みだが被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」<ref>http://mainichi.jp/select/world/archive/news/2008/10/25/20081025ddm007030117000c.html{{deadlink|date=2015-10-5}}</ref>と述べた。