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'''堅昆'''(けんこん、[[拼音]]:Jiānkūn)は、かつて[[中央ユーラシア]]北部に分布した[[テュルク系]][[遊牧民族]]。キルギズ(Qïrqïz)の転写とされており、時代によっては'''鬲昆'''<ref>『史記』</ref>(へきこん、Gékūn),'''契骨'''<ref>『北史』、『周書』、『隋書』</ref>(けいこつ、Qìgŭ),'''居勿'''(きょぶつ、Jūwù),'''結骨'''<ref>『旧唐書』、『新唐書』</ref>(けつこつ、Jiégŭ),'''
==起源==
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===モンゴル帝国の支配===
[[ファイル:Map of 13c Mongolia.png|thumb|300px|13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。]]
[[1207年]]、[[モンゴル帝国|モンゴル]]の[[チンギス・カン]]は2人の官吏を派遣し、キルギズ族の王<ref>この頃、キルギズやケム
[[1217年]]<ref>『[[元朝秘史]]』では1207年としている。</ref>、[[トゥマト]]族がモンゴル帝国に対して反旗を翻したため、チンギス・カンはその隣族であるキルギズ族に出兵要求をした。しかし、キルギズがそれを断ったため、チンギス・カンは長子の[[ジョチ]]にキルギズ討伐を命じた。ジョチは氷結したケム
===叛乱者の退却地===
後継争いの末、モンゴル第4代皇帝(カアン)となった[[モンケ]](在位:[[1251年]] - [[1259年]])は[[1252年]]、オゴデイ家とチャガタイ家の反対派に対して大規模な粛清をおこなった。この時、モンケの軍隊はキルギズ
モンケの死後、その末弟である[[アリクブケ]]と次弟である[[クビライ]]との間で後継争いが起きた([[モンゴル帝国帝位継承戦争]])。クビライに敗れたアリクブケは自らの冬営地であるキルギズの地に退却した。<ref>ドーソン 1971,p13</ref>
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