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[[ファイル:Banzuke2.jpg|thumb|番付表]]
'''番付'''(ばんづけ)は[[大相撲]]における[[力士]]の順位表。正式には'''「番付表」'''という。ここから転じてその他さまざまなものの順位付けの意味でも用いられる([[高額納税者公示制度|長者番付]]など)。格下のものが上位のものを倒す「[[番狂わせ]]」などの言葉はここから発している。すでに[[江戸時代]]にはこの形式を借りて、[[古典園芸植物]]の品種や各地の名所、[[温泉]]、[[三味線]]演奏家、[[遊女]]、本拳(数拳/崎陽拳/豁拳)や藤八拳(東八拳)といった[[拳遊び]]、[[落語]]・[[講談]]などの[[寄席]][[芸人]]や[[歌舞伎役者]]など、ありとあらゆるものをランク付けし、それを番付表として出版することが盛んに行われた。これら相撲以外の様々なものを番付にしたものは「見立て番付」「変わり番付」などと呼ばれる
 
== 由来 ==
[[ファイル:Banzuke 1788.jpg|200px|thumb|江戸時代の力士の似顔絵。[[谷風梶之助_(2代)|谷風]](4代横綱)や[[小野川喜三郎|小野川]](5代横綱)が記述されている。]]
古くは[[興行]]の場所に「興行札」という木の掲示板を立て、興行日時と、出場力士の名前と序列を明らかにした。古番付が基本的に[[写本]]の形式で伝承されているのはそのためである。しかし、興行の規模が拡大し、広く告知する必要が生じたために、[[木版印刷]]の形式で番付を発行([[享保]]年間([[1716年|1716]]~[[1735年]])に木版印刷となる)し、直接相撲場に行く前に、興行の概要を知ることができるようにした。現在でもこの流れを継いで、[[行司]]による毛筆書きを[[写真製版]]して印刷している。江戸の相撲では、現在[[宝暦]]年間([[1755年]]頃)以来の印刷された番付が確認されている。[[日本相撲協会]]によれば、[[1757年]](宝暦7年)に縦一枚形式の番付が初めて発行され<ref>[[1761年]](宝暦11年)10月場所より、それまでの「[[勧進]]相撲」を「勧進'''大相撲'''」と記す。なお大坂、京都は横番付。</ref>、[[2007年]](平成19年)は発行250周年にあたるという。[[大坂相撲]]では、[[1869年]](明治2年)3月場所より江戸時代からの横東西二枚番付を、初めて縦一枚番付の江戸風に改めて発行した<ref>一時、[[1871年]](明治4年)4月場所から[[1877年]](明治10年)9月場所まで元の横二枚番付に戻る。</ref>。古番付の記録として最古のものは、[[1699年]](元禄12年)5月に[[岡崎神社|京都岡崎天王社]]において勧進相撲が興行された時のもので、[[三役]]の名称もこの番付が初見である。大坂で最古の番付は[[1702年]](元禄15年)4月、[[堀江 (大阪市)|大坂堀江]]勧進相撲公許興行の時のもので、以後享保年間の頃より大坂・京都番付を多くみる。
 
== 構成 ==
中央の帯の最上部に、公的な許可を得た興行であることを宣言する'''蒙御免'''(ごめんをこうむりまして)の大文字、その下に興行の日時と場所、各行司と主催者(日本相撲協会)を記載する<ref name="hunbanndsuke"/>。これは興行札の体裁の名残である。この帯を境界に、各力士が東西二分して表記され、東方が西方より格上にみなされる。たとえば東[[大関]]は西大関より半枚上である。この形式は江戸で生み出されたもので、それ以前の大坂相撲では、東と西との二枚に分けて発行されていた。しかし、初期の江戸相撲は、参加する力士が少なかったため、一枚に収めて東西に分けることにしたために、東西の序列が必要になった。
 
東が西よりも格上とみなされるようになったきっかけは、[[1890年]](明治23年)に[[横綱]]免許をうけた大関[[西ノ海嘉治郎 (初代)|初代西ノ海]](16代横綱)が、[[張出]]大関になることに不満をもらしたため、これをなだめるために同年5月場所で番付にはじめて「横綱」の文字をいれ、東に張出の形式で配置したころからのことである。[[1909年]](明治42年)6月場所の[[東西制]]実施のときに、優勝した方屋を翌場所東に配置したことで、東が半枚上ということが確定して、現在に至っている。ただし[[春秋園事件]]に際して発行された改定番付([[1932年]](昭和7年)2月場所)では大関3人(東方に[[玉錦三右エ門|玉錦]]と[[能代潟錦作|能代潟]]、西方に[[武藏山武|武藏山]])で張出をつくらなかったために、幕内では「[[関脇]]以下は西が上位」とされていたため東方上位が完全に確定した時期はこれ以降である。
 
== 特徴 ==
[[ファイル:Banzuke 1788.jpg|200px|thumb|江戸時代の力士の似顔絵。[[谷風梶之助_(2代)|谷風]](4代横綱)や[[小野川喜三郎|小野川]](5代横綱)が記述されている。]]
 
[[ファイル:Onsen banzuke Edo Era.png|thumb|相撲の番付を模した、温泉のランキング(温泉番付)。]]
番付は単なる順位表ではない。その特徴は以下のようなものである。
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* 全体を東西に分け、紙面上ではそれを左右に振り分け、ほぼ同格のものを対称の位置に並べる。
 
すでに[[江戸時代]]にはこの形式を借りて、[[古典園芸植物]]の品種や各地の名所、[[温泉]]、[[三味線]]演奏家、[[遊女]]、本拳(数拳/崎陽拳/豁拳)や藤八拳(東八拳)といった[[拳遊び]]、[[落語]]・[[講談]]などの[[寄席]][[芸人]]や[[歌舞伎役者]]など、ありとあらゆるものをランク付けし、それを番付表として出版することが盛んに行われた。これら相撲以外の様々なものを番付にしたものは「見立て番付」「変わり番付」などと呼ばれる。
その面白さのために、他の分野でも同様の物が作られる。例えば古典園芸植物では、江戸時代後期より、多くの植物でそれぞれ番付が作られ、現在もあちこちで出版されている。たとえば[[万年青]]では、現存最古として[[1799年]]刊のものが確認されている。もっとも、[[長者番付]]などは番付と言いながらも、単なる順位表となっている。
 
格下のものが上位のものを倒す「[[番狂わせ]]」などの言葉はここから発している。
 
== 大相撲の番付 ==
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* 1882年6月場所より、成績に応じて番付を編成するようになった。
* 1888年5月場所、京都相撲より東京相撲に編入した[[達ノ矢鶴吉|一ノ矢鶴吉]]は、当時関脇に[[一ノ矢藤太郎]](のち大関)がいたため「達ノ矢」と改名した。
東が西よりも格上とみなされるようになったきっかけ* 1890年5月場所では、[[1890年]](明治23年)に[[横綱]]免許をうけた大関[[西ノ海嘉治郎 (初代)|初代西ノ海]](16代横綱)が、[[張出]]大関になることに不満をもらしたため、これをなだめるために同年5月場所で番付にはじめて「横綱」の文字をいれ、東に張出の形式で配置したれをきっけに、東西で東が上位扱いを受けることである。になった<ref>[[1909年]](明治42年)6月場所の[[東西制]]実施のときに、優勝した方屋を翌場所東に配置したことで、東が半枚上ということが確定して、現在に至っている。ただし[[春秋園事件]]に際して発行された改定番付([[1932年]](昭和7年)2月場所)では大関3人(東方に[[玉錦三右エ門|玉錦]]と[[能代潟錦作|能代潟]]、西方に[[武藏山武|武藏山]])で張出をつくらなかったために、幕内では「[[関脇]]以下は西が上位」とされていたため東方上位が完全に確定した時期はこれ以降である。</ref>
* [[1892年]](明治25年)6月場所新入幕の大砲は、番付には「大炮」と書かれた(読み方は同じ「おおづつ」、序二段時代の1888年5月場所に改名)。幕内で「大炮」と書かれたのは、この場所を含め[[1898年]](明治31年)5月場所まで13場所中4場所あった。
* [[1900年]](明治33年)1月場所で[[常陸山谷右エ門|常陸山]]が新関脇に昇進以降、[[1959年]](昭和34年)1月場所の横綱[[千代の山雅信|千代の山]]の引退まで、[[出羽海部屋]](常陸山の当時は「出羽ノ海部屋」)は約60年間138場所の間番付上に役力士の四股名を欠かすことがなかった。