「ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇)」の版間の差分
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[[File:Albino Luciani, 1947.jpg|thumb|200px|ベッルーノ教区神学校教授時代(1947年)]]
[[File:Albino Luciani, 1964.jpg|thumb|200px|ヴィットリオ・ヴェネト司教時代(1964年)]]
[[1923年]]にフェルトレの神学校に入ったが、後にベッルーノ教区の[[神学校]]に移って学んだ。このころには[[イエズス会]]に入会しようとするが、神学校のジョ
[[第二次世界大戦]]後にはベッルーノ教区神学校の教授になり、その後[[1958年]]に[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]によって[[ヴィットリオ・ヴェネト]]の[[司教]]に任命された。
司教に任命された後もサン・マル
===総大司教===
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そうした中でも清貧の精神を常に失わず、総大司教に任命された時には信者達からの100万[[リラ]]の寄贈金があったが、「私がこの地に来た時はポケットに5リラしかありませんでした。ですから去る時も5リラしか持ちません」と語り、全額を寄付した。
===カットーリカ・デル・
[[1972年]]に、ルチャーニが総大司教を務めていたヴェネツィアで[[聖職者]]や低所得者層への低金利融資を行っていたカットーリカ・デル・
これに対してルチャーニ総大司教はバチカンに抗議をしたものの、マルチンクス大司教が[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]から直々にバチカン銀行総裁に任命されていたことから、パウロ6世へ累が及ばないように巧みに抗議を行ったことなどがパウロ6世に感銘を与え、パウロ6世からの信頼を勝ち取った。この事も影響し翌年の[[1973年]]には[[枢機卿]]に選ばれた。
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1978年にパウロ6世の死去を受けて行われた[[コンクラーヴェ]]において、「本命」と目されていたジュゼッペ・シーリ枢機卿や[[ブラジル]]出身のアロイージ・ロシャイデル枢機卿を退け、1日目の3回の投票でアルビーノ・ルチャーニ枢機卿が新教皇に選ばれた。
教皇名は「ヨハネ・パウロ」となり、複合名を初めて採用した教皇となった(これは[[ヨハネ23世]]とパウロ6世前教皇の改革路線を継承するという意志の表れとも言われる)。また通常初めての名前には2世が表れるまで「1世」と付けないのが通例であったが、就任当初から「ヨハネ・パウロ1世」を自ら名乗っている。これには「ヨハネとパウロという法王名を組み合わせた初めての例だから」「(バチカンの)刷新の思いを込めた」などの説がある
<ref>{{Cite web|date=2013-03-24 |url=http://www.asahi.com/international/update/0324/TKY201303240152.html|title=バチカン「1世つけません」 新法王は「フランシスコ」|publisher=[[朝日新聞]]|accessdate=2017-11-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130326210217/http://www.asahi.com/international/update/0324/TKY201303240152.html|archivedate=2013-03-24|deadurldate=2013-03-24}}</ref>。
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ヨハネ・パウロ1世の死去により改革が行われないままとなったバチカン銀行は、その後も主要取引銀行を介して度々マネーロンダリングなどの違法な取引にかかわったと指摘されている。
2代後の[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]時代には、[[2009年]]11月と[[2010年]]9月の2度に渡り、バチカン銀行とエット
==出典==
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