「コンスタンティヌス1世」の版間の差分

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比較的長く続いた平和の後、コンスタンティヌス1世とリキニウスの関係は再び悪化した。その要因にはコンスタンティヌス1世が息子のクリスプスと小コンスタンティヌスをリキニウスと相談することなく(ジョーンズによれば321年に)執政官職(コンスル)に就けたこと<ref name="ジョーンズ2008p132"/>、その後もリキニウスの同意なしにコンスルの任命をし続けたこと、リキニウスが自領内でコンスタンティヌス1世が任命したコンスルを無視したこと<ref name="ジョーンズ2008p132"/>、323年にコンスタンティヌス1世が第2モエシア属州に侵入した[[ゴート人]]を討伐するためにリキニウスの領土に侵入したこと<ref name="ジョーンズ2008p132"/><ref name="ランソン2012p32">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 32</ref>、キリスト教徒の庇護者として振る舞うコンスタンティヌス1世の姿を見たリキニウスが、自分の領内のキリスト教徒をスパイだと疑い始めたこと<ref name="スカー1998p269"/><ref name="ランソン2012p32"/><ref name="ジョーンズ2008p133">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 133</ref>などが挙げられている。リキニウスはコンスタンティヌス1世よりもはっきりと[[一神教]]的な見解を持っていたようにも見受けられるが、古くからの神々を拒否することは無く、それらを偉大な[[ユーピテル|ユピテル神]]の別側面であるとみなしたと考えられる<ref name="ジョーンズ2008p133"/>。一方でコンスタンティヌス1世はキリスト教徒への庇護の傾斜を強め、320年にはコンスタンティヌス1世のコインに残されていた最後の異教の神、不敗太陽神({{仮リンク|ソル・インウィクトゥス|en|Sol Invictus|label=ソル}})の図像が姿を消した<ref name="ジョーンズ2008p134">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 134</ref>。コンスタンティヌス1世がキリスト教への傾倒を強めるほどに、リキニウスはキリスト教徒たちの礼拝がコンスタンティヌス1世のためのものであるという認識を強め、教会の活動への統制を強めていった<ref name="ジョーンズ2008p133"/>。324年には両者は再び武力衝突に至った<ref name="ジョーンズ2008p133"/>。彼らは自分が基盤を置く宗教組織へ協力を求めたとされている。コンスタンティヌス1世はキリスト教の[[司教]]たちを呼び寄せ、自軍の兵士たちに至高の神への祈りを強制し、リキニウスは祭司、占い師、魔術師をエジプトから呼び寄せ神々に犠牲を捧げたという<ref name="ジョーンズ2008p134">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 134</ref>。
 
コンスタンティヌス1世とリキニウスはともに過去の内戦で動員されたよりもはるかに大きな兵力を擁していた{{refnest|group="注釈"|ジョーンズによればコンスタンティヌス1世はガリアとイリュリクムの兵力を中心とする練度の高い陸軍を120,000人、リキニウスは歩兵150,000人と[[フリュギア]]、[[カッパドキア]]から動員した騎兵15,000を集めたとされる<ref name="ジョーンズ2008p136">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 136</ref>。ただし海軍戦力はコンスタンティヌス1世が[[ガレー船]]200隻であったのに対し、リキニウスは350隻の艦隊を保持しており優勢であった<ref name="ジョーンズ2008p136"/>。ランソンは、コンスタンティヌス1世が騎兵10,000騎、歩兵120,000人と軍船200隻、輸送船2,000隻を持ち、リキニウスは165,000人の兵力を擁していたとするゾシモスの記録を紹介している<ref name="ランソン2012p32"/>。ただし、ランソンは両軍の実数は確実にもっと少ないとしている<ref name="ランソン2012p32"/>。}}。戦いはコンスタンティヌス1世の先制攻撃で始まり、彼は324年7月3日にアドリアノープル近郊に駐留していたリキニウス軍を攻撃した<ref name="ジョーンズ2008p136"/>。コンスタンティヌス1世自身が腿に負傷を追う激戦の末に彼は勝利を収め、リキニウスはビュザンティオンに退却した({{仮リンク|アドリアノープルの戦い (324年)|label=アドリアノープル(ハドリアノポリス)の戦い|en|Battle of Adrianople (324)}}<ref name="ジョーンズ2008p137">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 137</ref><ref name="ランソン2012p32"/>
 
リキニウスはビュザンティオンで{{仮リンク|諸局長官|en|Magister officiorum}}(''Magister officiorum''{{refnest|group="注釈"|name="諸局長官"|尚樹によればこの諸局長官(''Magister officiorum'')の設置はコンスタンティヌス1世によるものである<ref name="尚樹2005p45">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 45</ref>。しかし、ジョーンズはリキニウスの宮廷における諸局長官の地位に言及している<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。}})の{{仮リンク|マルティニアヌス (皇帝)|label=セクストゥス・マルキウス・マルティニアヌス|en|Martinian (emperor)}}を共同皇帝に擁立した<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。コンスタンティヌス1世はビュザンティオンを包囲したが、リキニウスは海上優位を活用して都市への補給を続けこれに耐えた<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。しかしコンスタンティヌス1世は同時に息子のクリスプスが指揮する艦隊に攻撃を命じており、リキニウスの海軍司令官アバントゥスの失策も手伝ってクリスプスが大勝を収め([[ヘレスポントスの海戦]])た。これによってビュザンティオンの維持を諦めたリキニウスはボスポラス海峡をわたって小アジアの[[クリュソポリス]](現:トルコ領[[ユスキュダル]]、イスタンブルの対岸)へと後退した。324年9月18日、クリュソポリスで最後の戦いが行われ、ここでもコンスタンティヌス1世が勝利を収めた<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。敗北したリキニウスは更に[[ニコメディア]]に逃れたが、そこで包囲され妻コンスタンティアを兄であるコンスタンティヌス1世の下へ送り助命を嘆願させた<ref name="ジョーンズ2008p137"/><ref name="ランソン2012p33">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 33</ref>。コンスタンティヌス1世はリキニウスとマルティニアヌスが命を保つことを認め降伏させた後[[テッサロニキ]]に送ったが、しばらく後に処刑した<ref name="ジョーンズ2008p137"/><ref name="ランソン2012p33"/>。後世の史料はリキニウスが蛮族を集め再起を図ったためにコンスタンティヌス1世が彼を処刑したのだとするが、実際のところは確たる理由はなくコンスタンティヌス1世の警戒心によるものであろう<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。少なくとも当時の人々にとってこの処刑が名誉ある行動ではなかったことは、コンスタンティヌス1世を称揚する教会史家[[エウセビオス]]がこの処刑を曖昧に書いていることなどから推測できる<ref name="ジョーンズ2008p138">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 138</ref>。