「やしきたかじん」の版間の差分

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整理・味の素事件は別に記述しても問題あると思いませんので戻します、他の記述情報の立場もないので
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| Genre = [[ポピュラー音楽|ポップス]]・[[AOR]]・[[歌謡曲]]
| Occupation = [[歌手]]<br />[[タレント]]<br />[[司会|司会者]]<br />[[ラジオパーソナリティ]]
| Years_active = [[19711976年]] - [[20142013年]]<!--活動期間はデビューから最後の活動までが基準-->
| Label = [[京都レコード]]([[1971年]])<br />[[ベルウッド・レコード|キングベルウッド]]([[1976年]] - [[1978年]])<br />[[キングレコード]]([[1979年]] - [[1982年]])<br />[[Invitation (レーベル)|ビクターインビテーション]]([[1983年]] - [[1991年]])<br />[[ポリスター]]TAKAJINレーベル([[1992年]] - [[2009年]])<br />[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]]<br />([[2010年]] - [[2014年]])
| Production = [[P.I.S]]
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| URL =
}}
'''やしき たかじん'''(本名:'''家鋪 隆仁'''('''やしき たかじ''')<ref name="nikkansports201604" />{{要高次出典|date=2017年2月}} [[1949年]][[10月5日]] - [[2014年]][[1月3日]]<ref name="nikkansports201401071240967">{{Cite web|url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20140107-1240967.html|title=やしきたかじん死去 再復帰かなわず|publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2014-01-07|accessdate=2014-01-07}}</ref>)は、[[日本]]の[[歌手]]、[[タレント]]、[[司会|司会者]]、[[ラジオパーソナリティ]]。主に[[関西ローカル]]や大阪の放送局製作で、[[関東]]を除く広域ネットの番組中心出演活動していた。愛称は「'''じんちゃん'''」「'''たかじんさん'''」「'''たかじん'''」など<ref>ただし[[桃山学院中学校・高等学校|桃山学院高等学校]]で同級生だった[[堀内孝雄]]([[軽音楽]]部部長)はたかじん([[新聞]]部部長)のことを「'''やしき'''」と呼んでいた。</ref>
 
個人事務所パブリック・インフォメーション・スタイル([[P.I.S]])代表取締役<ref>この場合における名義は漢字(本名)表記である</ref>、大阪を盛り上げるために発足された民間団体「OSAKAあかるクラブ」のキャプテン<ref>{{Cite web |url=http://akaruclub.jp/message/index.html |title=キャプテンからのメッセージ |publisher=OSAKAあかるクラブ |accessdate=2014-01-08}}</ref> および理事長<ref>{{Cite web |url=http://akaruclub.jp/report/forum.html |title=『第一回OSAKAあかるクラブ』ご報告� |publisher=OSAKAあかるクラブ |accessdate=2014-01-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140112193611/http://www.akaruclub.jp/report/forum.html |archivedate=2014年1月12日 |deadlinkdate=2018年3月 }}</ref> などを歴任した。
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「家鋪」という苗字は多いほうではなく<ref>[http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AE%B6%E9%8B%AA 家鋪] 苗字検索</ref>、また名前の「隆仁」の読み方は「たかひと」が多い。
 
愛称は「'''じんちゃん'''」「'''たかじんさん'''」「'''たかじん'''」など。ただし[[桃山学院中学校・高等学校|桃山学院高等学校]]で同級生だった[[堀内孝雄]]([[軽音楽]]部部長)はたかじん([[新聞]]部部長)のことを「'''やしき'''」と呼んでいた。
 
=== 病歴について ===
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たかじんが大阪でP.I.Sを設立した直後は、関西での仕事の依頼が皆無だったことに加えて、既に離婚していた最初の妻への生活費・養育費の支払いなどで苦しい状況にあった。やがて、あるクラブから、マネージャーの野田を通じて「営業」(クラブのステージで数曲を歌う仕事)の依頼が舞い込んだ。「営業」と割り切ればギャランティとして大金を得られる仕事だったが、「いったん引き受けてしまうと、(歌手として)何か大切なものまで売ってしまう」と感じたたかじんは躊躇。結局、野田と協議した末に、「営業」の依頼を断った。この時の決断がきっかけで、たかじんも野田も、「営業」の引き合いに一切応じなくなった<ref>著書『たかじん胸いっぱい』「ぼくのマネージャーは宇宙一」pp.173 - 176</ref>。
 
=== 東京とたかじん ===
=== 同じ時期に出演するレギュラー番組は最大でも3本 ===
晩年、東京で放送されるテレビ番組に出演していたいなかった為、関西だけで活動する印象が強くなってるが元々東京での活動が皆無であった訳ではなく、たかじんが1970年代後半に「日本一移動距離の長い芸能人」(前述)と称されるほどにまで多忙を極めたのは、当時の東京での仕事の窓口だった[[ヤングジャパン]]から、週に6本ものラジオ番組でレギュラーを任されていたことによる。ただし、いずれの番組でも、たかじんの役割は同社からの情報を提供する「ナビゲーター」に過ぎなかった。
 
たかじんは、そのような境遇で2年ほど過ごした末に、同社の社員だった野田と共に東京からいったん撤退<ref>著書『たかじん胸いっぱい』「ぼくのマネージャーは宇宙一」pp.170 - 173</ref>。「歌手」としての仕事を地元の関西に求めた。しかし、たかじんをかつて『MBSヤングタウン』のレギュラーに起用した[[渡邊一雄 (プロデューサー)]]から、「大阪というか関西では、歌だけで食べていかれへんぞ」と指摘。これを機に、出演を依頼された全ての番組でレギュラーを引き受ける道を選んだ。たかじんが後に述懐したところによれば、(タレントとしての)上昇機運をつかんだことを実感したのは、『聞けば効くほどやしきたかじん』のパーソナリティを務めていた時期だったという<ref>著書『たかじん旅たび失礼』「それにしても長かったぼくの道のり」pp.50 - 54</ref>。
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もっとも、『聞けば効くほどやしきたかじん』や『晴れ時々たかじん』を軌道に乗せてからは、同じ時期に出演するレギュラー番組を最大でも3本に限定。東京へ再び進出した1992年度の下半期にも、大阪・東京で3本の姿勢を貫いた。たかじんの逝去後も、在阪の民放テレビ局では、「たかじん」の名を冠した3本のレギュラー番組が放送を続けている(前述)。ちなみに、たかじんは生前、レギュラー番組を3本以下にとどめるようになった理由について「企画の段階から参加できない番組でレギュラーを務めることは、『ギャラ稼ぎ(を狙った)流しの仕事』に過ぎないので視聴者に失礼」「新番組を引き受ける限りは(視聴率で裏番組に)圧勝しなければならないが、不器用な自分の能力では3本が限界」「テレビ番組に関わる以上、(自宅へ大量に設置した)ビデオデッキで録画した番組を全部見たうえで、放送内容を徹底的に分析しなければ納得が行かない」と述べている<ref>『たかじん旅たび失礼』「たかじん流・テレビとの闘い方」pp.132 - 135</ref>。
 
[[上岡龍太郎]]と同たかく大アンチ東京主義を決定付けさせたのがレギュラー番組であった『[[M10 (テレビ番組)|M10]]』([[テレビ朝日]])で起こったわゆる「[[味素事件|味の素激昂事件]]」である(後述)その前後にも『 [[テレビ近未来研究所]]』([[TBSテレビ]])等にレギュラー出演していが番組自体は揮わず打ち切り後在京局の番組での出演は非常に少なくなった大阪発を含めそれが相まっ東京嫌いとなり在阪局制作の全国ネット出演番組も多くなかっ『[[かじんnばぁ〜]]』なお、上岡東京で1987年[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])、 『[[たら2000年じん・ナオコ引退まシャベタリーノ!]]』(東京全国ネットはTBSテレビ)で見かける程度となった。しかしこの2つの番組への出演増加終了すると在阪局制作の番組であっても東京でレギュラー番組として放送されることはなかっ。かつて『[[たかじん胸いっぱい]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]])の全国ネット化をキー局のフジテレビから打診され、また『[[そこまで言って委員会NP|たかじんのそこまで言って委員会]]』(読売テレビ)もキー局の日本テレビからゴールデンタイムでの全国ネット化を熱望されたが、たかじんが「[[広域放送|関東]]には絶対流さない」「関東で放送されるくらいなら辞退する」と言い(『そこまで言って委員会』の[[宮崎哲弥]]も同様に埼玉・千葉・神奈川では辞めないにしても、東京で放送したら辞めると宣言している)、在京キー局(関東)ではネットされなかった。
=== 東京での仕事を極力避ける ===
[[上岡龍太郎]]と同じく大の東京嫌いのため、在京局の番組での出演は非常に少なく、大阪発を含めても全国ネットの出演番組も多くなかった(なお、上岡は1987年から2000年の引退まで全国ネット番組への出演が増加していた)。かつて『[[たかじん胸いっぱい]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]])の全国ネット化をキー局のフジテレビから打診され、また『[[そこまで言って委員会NP|たかじんのそこまで言って委員会]]』(読売テレビ)もキー局の日本テレビからゴールデンタイムでの全国ネット化を熱望されたが、たかじんが「[[広域放送|関東]]には絶対流さない」「関東で放送されるくらいなら辞退する」と言い(『そこまで言って委員会』の[[宮崎哲弥]]も同様に埼玉・千葉・神奈川では辞めないにしても、東京で放送したら辞めると宣言している)、在京キー局(関東)ではネットされなかった。
 
しかし、『たかじん胸いっぱい』は かつては[[テレビ埼玉]]、[[テレビ神奈川|tvk]]、[[とちぎテレビ]]、[[群馬テレビ]]など関東の独立局でも放送していた。このことは東京都民も視聴できる可能性があるものの、そこまでは反対していなかった(かつて[[GAORA]]で3ヶ月遅れで放送された『[[たかじんONE MAN]]』もケーブルテレビを介してなら視聴可能だった)。東京都の独立局である[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]については「東京唯一の独立局だけれども東京のテレビ局だから」だけでキー局扱いにし、毛嫌いしており(ただしその他の在京キー局ほどではない)、独立局ではTOKYO MXのみ、たかじんの出演番組のネット放送は開局以来全くされなかった。[[千葉テレビ放送|千葉テレビ]]では『たかじんnoばぁ〜』の復活特番第1弾でネットの実績がある。
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2011年11月26日放送のフジテレビ系列『めちゃ<sup>2</sup>イケてるッ!』2時間SP内のコーナー「[[やべっち寿司]]」に出演した<ref>{{Cite web|url=https://datazoo.jp/tv/%E3%82%81%E3%81%A1%E3%82%83%C3%972%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%83%83%EF%BC%81/527950/2|title=2011年11月26日放送 めちゃ2イケてるッ!今夜でさようなら中嶋P緊急送別会スペシャル!!|work=TVでた蔵|publisher=[[ワイヤーアクション (企業)|ワイヤーアクション]]|date=2011-11-26|accessdate=2018-03-31}}</ref>。全国ネットの番組出演は約3年振り、東京での収録は約7年振りである。
 
東京などの関東圏には、放送局などのマスコミ関係での仕事は避けていたが、晩年は東京都内にも住居を所有して私用などで滞在することはあった。
 
=== 在京局および一部地方局への批判 ===
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* 放送作家の[[古川嘉一郎]]が番組の打ち合わせでたかじんの家に来ていたとき、その日がたまたま土曜日であった。打ち合わせ中、[[競馬中継]]を観ながら構成作家が「このレース、●●(馬名)で[[鉄板]]」というのを聞いて、たかじんは「『鉄板』ってなんですの?」と聞き返した。その馬が1着になれば単勝[[オッズ]]2.0倍だから2倍になって返ってくる、ということを聞かされ、その馬の単勝式馬券に10万円を投じたのが、競馬との関わりのきっかけであったが、そのレースは鉄板だったその馬は勝てず、10万円は一瞬で消えたという。
* [[日本中央競馬会]]の馬主登録をしており、2009年の[[秋華賞]]を勝った[[レッドディザイア]]の母、[[グレイトサンライズ]]を所有していた。しかし、2006年以降は個人で競走馬を所有していない。
 
=== 味の素激昂事件===
* たかじんの東京嫌いを決定づけた事件が、1992年12月、たかじんが司会をしていた[[テレビ朝日]]の深夜番組[[M10 (テレビ番組)|M10]]の料理コーナーで起きた通称:「味の素事件」<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/E1477973811246/ やしきたかじん 衝撃の放送事故「味の素激昂事件」の真相]</ref>である。たかじんが「こんにゃくサイコロ ステーキ」を調理中、隠し味に必要な[[味の素#調味料「味の素」|味の素]]が見つからず、番組スタッフや助手を務めていた[[服部栄養専門学校]]の生徒に「味の素はどこや?!」と連呼したが、誰も答えなかったため、[[アシスタントディレクター]](後に[[小宮悦子]]と結婚した人物)を殴り、スタジオのセットを破壊する出来事があった。その状況に慌てた共演の[[トミーズ雅]]が「味の素を入れたことにしましょう」と軌道修正を図るフォローをしたが、「出来ん、それ。味の素が無いのに出来ない!」と調理を放棄。たかじんは生放送中にも関わらず、スタジオを後にして帰った。スタジオに残されたゲストの[[中山秀征]]と[[大竹まこと]]は、たかじん作成の進行表だけを頼りに残りの放送時間内で「味の素を入れない、こんにゃくステーキ」を完成。トミーズ雅、大竹、中山の3人で試食をして、波乱の生放送を締めくくった<ref>「追悼! やしきたかじん 追悼ってなめとんか! やしきたかじんを全部しゃべり倒したらぁ〜SP!!(関西テレビ 2014年2月8日放送分)」より{{出典無効|date=2015年4月17日 (金) 04:19 (UTC)}}</ref>。
** ただし、この激昂は味の素だけが原因ではなく、味の素はきっかけに過ぎなかった。それ以前に番組スタッフが、大阪のタレントを見下している感が強すぎたからである。後日、たかじんは別の番組で「[[ファクシミリ|ファックス]]で再三、打ち合わせしたにも関わらず、味の素を持って来なかったことに腹を立てた」と話している。この事件で、たかじんは殴った際に右手を骨折した。
* 生番組中に「味の素」と連呼したことで、味の素本社から1000本の味の素が送られて、スタジオのセットやたかじんの楽屋の至るところに置かれるという後日談も生まれた。この差し入れは同社からの善意によるものとされているが、激怒した原因は打ち合わせをしたにも関わらず制作スタッフの怠慢で進行に支障を来したことから「味の素がなかったから」とすることは本意ではなく「あるかないかの問題ではなく、そもそも制作業務としての当然の通達が全く機能していなかったためである」と本人が吐露している。
* 後に番組内で、たかじんは「騒動を引き起こした責任を取って、番組を自ら降板する」と宣言したが、トミーズ雅から説得され、一旦は慰留を受け入れたが、バーのマスター役のたかじんとトミーズ雅が有名人を迎えてトークをする『M10』金曜日の番組構成は、既に関東地区以外で放送されていた[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]の『[[たかじんnoばぁ〜]]』と全く同じであったため、この事件で『自局制作の番組を模倣した番組』が関東ローカルで放送されていたことを知った読売テレビが、テレビ朝日と制作プロダクションの[[オフィス・トゥー・ワン]]に事情説明を求めるまでに発展して、翌1993年3月に降板した。同時に、彼の東京嫌いが決定的なものとなった。
* その後、『[[上岡龍太郎にはダマされないぞ!]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]])』に、たかじんがゲスト出演した際、司会の[[上岡龍太郎]]のアイディアで、セットに「味の素」を敷き詰めたという後日談もある<ref>「追悼! やしきたかじん 追悼ってなめとんか! やしきたかじんを全部しゃべり倒したらぁ〜SP!!(関西テレビ 2014年2月8日放送分)」より</ref>。
* 後に『[[たかじんTV非常事態宣言]]』の企画で、味の素 大阪支社を訪れた際、この事件が味の素の社内でも伝説として語り継がれていることを知る。
 
=== その他 ===