「リチャード・ブラントン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
4行目:
 
== 生涯 ==
1841年12月、英国海軍の艦長の息子として[[スコットランド]]の[[アバディーンシャー]]州キンカーデン郡に誕生。鉄道会社の土木首席助手として鉄道工事に関わっていたところ、[[スティーブンソン事務所]]<ref>スティーブンソン事務所はトーマスとデヴィッドの二人の兄弟を中心にした技術事務所で、政府から北方灯台局Northern Lighthouse Boardの管理運営を任されていた.。このデヴィッドの長男が『宝島』などで名高いを小説家スティーブンソンである.</ref>によるを介した日本における政府の灯台建設技術者募集に応募し、[[1868年]](明治元年)2月24日に技師長に採用された。後日行われた技師補選考では[[コリン・アレクサンダー・マクヴェイン|マクヴェイン]]とブランデルが採用されと、出発にあたって3ヶ月間にわたりエジンバラで灯台建設や光学、その他機械技術の研修を受けた。
 
[[1868年]](慶応4年)8月、妻子及び技師補2人を伴って来日した。当時26歳。エジンバラのスティーブンソン事務所の支援を受けながら、[[1876年]](明治9年)までの8年間の日本滞在中に、[[和歌山県]][[串本町]]の[[樫野崎灯台]]を皮切りに26の灯台、5箇所の灯竿、2艘の灯船などを建設し、日本における灯台体系の基礎を築き上げた。また灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いだ。