「マックス・レーガー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
LTA:NODAによるブロック破りが行なわれていたため戻す
1行目:
{{複数の問題|ソートキー=人1916年没|出典の明記=2010年8月|参照方法=2010年8月
|大言壮語=2012年6月
|独自研究=2012年6月}}
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = マックス・レーガー<br/>Max Reger
24 ⟶ 27行目:
| Notable_instruments =
}}
'''ヨハン・バプティスト・ヨーゼフ・マクシミリアン・レーガー'''('''Johann(Johann Baptist Joseph Maximilian Reger''', [[1873年]][[3月19日]] - [[1916年]][[5月11日]])は、[[ドイツ]]の[[作曲家]]・[[オルガニスト|オルガン奏者]]・[[ピアニスト]]・[[指揮者]]・[[音楽教師]]
 
== 生涯 ==
31 ⟶ 34行目:
[[1902年]]、レーガー自身は[[カトリック教会|カトリック]]信徒であったにもかかわらず、[[離婚]]歴のある[[プロテスタント]]信徒の女性エルザ・フォン・ベルケン(Elsa von Bercken)と結婚し、結果的に[[カトリック教会]]から[[破門|無式破門]]に処せられた。ミュンヘン時代のレーガーは、作曲家としても、また演奏会ピアニストとしてもきわめて積極的に活動している。[[1905年]]にはミュンヘン音楽院の打診を受けて、[[ヨーゼフ・ラインベルガー]]の後任教授に就任するが、わずか1年後には保守的な同校と意見の食い違いを起こすようになっていた。
 
[[1907年]]に演奏活動で[[カールスルーエ]]に滞在中に、[[フェリックス・メンデルスゾーン音楽演劇大学|ライプツィヒ音楽院]]の教授に選任されるが、その後も演奏活動と創作活動を続け、[[1908年]]には教授職を退き、[[1911年]]から[[1914年]]の始めまで[[マイニンゲン宮廷楽団]]の[[宮廷楽長]]に就任した。[[1914年]]にマイニンゲン宮廷楽団が解散されると、[[イェーナ]]に転居。その後も精力的な作曲活動と演奏活動を続けている。演奏旅行の帰りにホテルで倒れているのが発見され、43歳で急逝。[[心筋梗塞]]のために43歳で急因とみられているしたが、極度の[[肥満]]や暴飲暴食、[[ニコチン中毒]]に[[過労]]もかか死因に関わっていたとみらている。
 
[[ライプツィヒ]]時代の門人に、[[ジョージ・セル]]、[[ヨーゼフ・ハース]]、[[ヨハンナ・ゼンフター]]がいる。
38 ⟶ 41行目:
 
== 作風 ==
{{複数の問題|section=1|ソートキー=人1916年没|言葉を濁さない=2011年12月
|大言壮語=2012年6月}}
[[Image:WelteMaxReger1913.jpg|right|273px|thumb|レーガーによる[[ウェルテ・ミニョン|ウェルテ・ミニョン社]]製フィルハーモニーオルガンへの録音風景、1913年。]]
レーガーはとりわけ[[オルガン]]曲によって名声を得ているが、その作品は、[[歌劇]]と[[交響曲]]をのぞいてすべての[[ジャンル]]を網羅しており、[[管弦楽曲]]、[[協奏曲]]、[[室内楽]]、[[歌曲|リート]]、[[合唱曲]]のいずれにも傾聴に値する作品を残した。レーガーは非常に多産な作曲家であったものの、演奏が困難な楽曲もあり現在までの録音点数はさほど膨大ではない。巨躯のため[[オルガン]]や[[ピアノ]]であって苦も無く大量の音塊を拾えたことかわ鍵盤楽器のための作品の演奏極端に難しい今日ほとんど無名である{{要出典|date=2012年6月}}。[[フーガ]]や[[変奏曲]]形式で作曲されている作品は多く、オルガン曲「BACH主題による幻想曲とフーガ」は、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の動機に基づく作品としても名高い。管弦楽のための「モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ」も比較的知られている。
 
レーガーは、自作を[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]や[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の伝統の一部と見なしていたが、その作品は、しばしばこれらの作曲家の古典的な構成を、[[フランツ・リスト]]や[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の拡張された[[和声法]]や、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の複雑な[[対位法]]に組み合わせたものとなっている。レーガーは、自らを「ドイツ三大B」(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)の正統的な後継者に位置付けることを好んだが、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]や[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]、[[リヒャルト・シュトラウス]]への傾倒を隠そうとはしなかった。また、晦渋な作風という意味で共通点のある[[フェルッチョ・ブゾーニ|ブゾーニ]]とは、互いに親しい間柄であった。
 
レーガーの好戦的で物議をかもすような側面は、《ヴァイオリン・ソナタ第4番ハ長調》作品72に集約されている。調性感の曖昧なこの作品は、新しい音楽を理解しようとしない保守的な聴衆や評論家を嘲るような鋭い調子を帯びており、開始楽章の第1主題は、A-F-F-E([[ドイツ語]]でAffeは「[[サル|猿]]」の意味)という音列<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20150205072320/http://www.max-reger-institut.de/media/max-reger_chronologie.pdf | title = Lebenslauf - Max-Reger-Institut |publisher = www.max-reger-institut.de |date = |accessdate = 2019-04-27}}</ref>と、S-C–H–A–F–E([[ドイツ語]]でSchafeは「[[ヒツジ|羊]]」の意味)という音列<ref>{{Cite web |url = https://www.jstor.org/stable/3600984|title = Brahms, Strauss, Sheep, and Apes: Reger's "Heroic" Struggle with Tradition |publisher = www.jstor.org |date = |accessdate = 2019-04-27}}</ref>が使われている。
 
レーガーは、[[1920年代]]まではドイツ語圏を中心に、むしろ影響力のある作曲家であった。[[新ウィーン楽派]]はレーガーの作品を研究し、初期の[[カロル・シマノフスキ|シマノフスキ]]や[[アンリ・マルトー|マルトー]]は、乾いたユーモアの表現や重厚な[[テクスチュア]]、拡張された調性においてレーガーを手本としている。[[パウル・ヒンデミット|ヒンデミット]]と[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]も、レーガーの作品に心酔した。プロコフィエフは、[[1916年]]にレーガーが[[ウジェーヌ・イザイ]]と共演して[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]で開いた演奏会で、上記の作品72をロシア初演した際にその場に居合わせ、この作品に魅了されたということを、後に述懐している。
51 ⟶ 56行目:
レーガーの変奏曲は、「ドイツ三大B」に並び立つ偉業で、変奏曲の歴史の中でも最も重要な作品に位置し、[[対位法]]の分野において[[半音階]]的な[[ポリフォニー]]に関連している。またレーガーは、[[フーガ]]やその他の対位法のカテゴリーの重要な作曲家として、バッハに並び立つ存在でもあった。
 
最晩年において、レーガーは明晰さや繊細さの最大限の可能性を好むようになり、[[楽式|楽節]]や[[楽句]]の全体を単純化しようと苦闘した。「大食鯨飲(シュトルム・ウント・トランク)の時代([[シュトゥルム・ウント・ドラング]]の「ドラング(Drang:衝動)」を「トランク(Trank:飲み物=酒)」に変えた<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20190427100055/https://www.fnp.de/kultur/sturm-trank-10588536.html| title = Sturm und Trank |publisher = www.fnp.de |date = |accessdate = 2019-04-27}}</ref>、レーガーの暴飲暴食ぶりを揶揄した言葉)」は過去のものとなり、「自由なイェナ様式(freien Jenai Stil<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20190427094733/https://www.henle.de/media/foreword/0786.pdf | title = „jetzt beginnt der freie, jenai- sche Stil bei Reger“ |publisher = www.henle.de |date = |accessdate = 2019-04-27}}</ref>)Stil)」と呼ばれる新しい表現様式に向かっている。たとえば、いくつかの管絃楽曲では壮大で抒情美あふれる[[ロマン派音楽]]に回帰しているが、その反面、有名な《[[モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ|モーツァルトの主題による変奏曲]]》作品132や《クラリネット五重奏曲》作品146は、枯れた筆致と練れた技巧のうちに軽妙洒脱な境地を繰り広げ、きたるべき[[新古典主義音楽]]のゆくえを予告している。
 
恩師[[フーゴー・リーマン]]による破壊的で批判的なレーガー作品評に加えて、レーガーの作品が、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]晩年の交響曲や[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の三大バレエ(とりわけ《[[春の祭典]]》)と同時期の「世紀末」(実際には20世紀初頭であるが、文化傾向としての「世紀末」)の音楽であるという事実も相俟って、レーガーの作品は(未だに)これら同時代の音楽の影の存在となっている。だが、[[カールスルーエ]]にマックス・レーガー研究所が設立され、室内楽曲全集の録音がCDに復刻されるなど、徐々にレーガー復活の機運が見られ、その他の作品が演奏会でも演奏されるようになってきた。
57 ⟶ 62行目:
また、レーガーのオリジナル作品だけでなく、編曲も再評価されるようになってきており、なかでも[[フレデリック・ショパン|ショパン]]や[[ヨハン・シュトラウス2世|ヨハン・シュトラウス]]のワルツのピアノ用編曲や、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]や[[フーゴー・ヴォルフ|ヴォルフ]]のピアノ伴奏歌曲をオーケストラ伴奏用に書き換えたものは、CDへの録音も行われている。いずれの場合も原曲の持ち味を損わずに、新たな声部を書き加えたり、巧みな楽器法の手腕を発揮している。ショパンの編曲では、とぼけた味わいすら醸し出しているとも評されている。
 
レーガーは多作な作曲家であったが、同時に大作志向も強かった。しかし、大作の完成作はほとんど無い。[[交響曲]]と[[オペラ]]は一作も残さず、[[シンフォニエッタ]]の他は[[変奏曲とフーガ]]数曲と[[ベックリンによる四つの音詩]]、[[ヘッベル・レクイエム]]、[[悲劇への交響的プロローグ]]を残すのみである。しかし、「未完成ラテン[[レクイエム]]」は未完成のまま長年放置されていたのが発掘され、録音された際に直ぐに「ドイツ・レコード批評家旬期賞」を受賞しているなど、相当な能力を秘めていたのも確かな様である。[[フル・オーケストラ]]に匹敵する表現力を持つ楽器ということから[[パイプ・オルガン]]の演奏と作曲にも熱心であり、自作自演録音も残している。[[リード・オルガン]]や、[[ブラスバンド]]と[[パイプ・オルガン]]の共演曲なども残しており、楽器の特性を掴んで作曲するという[[ヒンデミット]]の先行者的な面も見られる。校訂もレーガー自らが几帳面に行っており、誤脱や異稿が同時代の作曲家に比べ少ないのも特異な点としてあげられる。
 
== 主要作品 ==
194 ⟶ 199行目:
 
== 脚注 ==
<references />
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
203 ⟶ 208行目:
* [http://www.maxreger.org The Max Reger Foundation of America®, New York City]
* {{IMSLP|id=Reger%2C_Max|cname=マックス・レーガー}}
 
{{DEFAULTSORT:れえかあ まつくす}}
 
{{Normdaten}}
[[Category:ドイツの作曲家]]
[[Category:ロマン派の作曲家]]
212 ⟶ 218行目:
[[Category:1873年生]]
[[Category:1916年没]]
{{Classic-stub}}
{{Music-bio-stub}}
{{Normdaten}}