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建国年にまつわる記述を修正。中学高校の教科書と絡めるのではなく学界動向に基づいたものに変更。建国年の設定については岡田英弘より相応しい出典がありそうですが、とりあえずそのままです。
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日本語では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、[[奈良時代]]までは「しらき」と清音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。これは元来「新羅城」の意味であり、新羅の主邑を指す用語が国を指す物に変化したのではないかという説がある。
 
== 前史起源 ==
=== 建国年 ===
『[[三国史記]]』「新羅本紀」冒頭の記述に従うと、新羅の建国は[[前漢]][[宣帝 (漢)|孝宣帝]]の五鳳元年、甲子の年であり、西暦に直すと[[紀元前57年]]となる<ref name="三国史記1p3">『[[#三国史記1|三国史記]]』「新羅本紀」第一, 井上訳, p. 3</ref>。これはいわゆる古代朝鮮の3国([[高句麗]]・[[百済]]・新羅)の中で最も早い建国であるが、[[末松保和]]らの研究によって後世に造作されたものであることが明らかにされている<ref name="朝鮮史研究入門p63">[[#朝鮮史研究会編|朝鮮史研究入門 2011]], p. 63</ref>。初期の時代における『三国史記』「新羅本紀」の記載は伝説的色彩が強いが、韓国の学界においては20世紀半ば頃にはこれを史実とする見解が出され、20世紀後半以降には紀年の修正はされているものの出来事は事実が反映されているとし、紀年の修正を行って建国年を3世紀前半まで引き下げる説などが提出されている。しかし、これらは具体的な論拠を欠き説得力に乏しいと評される<ref name="朝鮮史研究入門p63"/>。
韓国の[[国定教科書]]では建国[[神話]]にもとづいた[[紀元前57年]]説を採用している。この点について、[[日韓歴史共同研究委員会]]メンバーである[[井上直樹]]は、「新羅の場合も『(中学校用)国史』『(高等学校用)国史』ともに紀元前57年とする。これは『[[三国史記]]』に基づいたものであるが、『三国史記』が当該期の政治的意図から新羅中心に編纂され、新羅の建国時期を意図的に[[高句麗]]以前に設定したと考えられていることを前提とすれば、その内容を史実かの如く、教科書に記載するのは問題であろう」と批判する<ref>{{Harvnb|井上|2010|p=₋413}}</ref>。中国史料に確認できる新羅の初出記事は、『[[資治通鑑]]』巻104・太元2([[377年]])年条に高句麗とともに[[前秦]]に[[朝貢]]した記事が伝えられ、百済と同様4世紀に成長をとげ、国際舞台に登場する<ref>{{Harvnb|井上|2010|p=₋413}}</ref>。史実と神話の不整合さは教科書執筆者も認識していたらしく、「『三国史記』には新羅、高句麗、百済の順で建国されたとあるが、[[中央集権国家]]の形成ははやくから[[中国文化]]と接触していた高句麗がもっとも早い。」として、中央集権化の形成時期をもって解消しようと試みる<ref>{{Harvnb|井上|2010|p=₋414}}</ref>。この場合、新羅はもっとも早くに建国されたにもかかわらず、中国との接触が遅れたために中央集権化が遅れたことになり、中央集権化において外的要因が大きく、内的要因は重視されなくなる<ref>{{Harvnb|井上|2010|p=₋414}}</ref>。従って朝鮮史は常に中国によって他律的に動かされてきたという[[朝鮮の歴史観#植民史観|他律性史観]]となり、それを重視するのであれば問題ないが、もっとも早く建国したはずの新羅がもっとも遅れて中央集権化したのかという問題が付きまとう<ref>{{Harvnb|井上|2010|p=₋414}}</ref>。
 
実際に新羅が外国にあらわれるのは『三国史記』で物語るよりも、はるかにあとの時代であり、中国史料に確認できる新羅の初出記事は、『[[資治通鑑]]』巻104・太元2([[377年]])年条にある、高句麗とともに[[前秦]]に[[朝貢]]したという記事である<ref>{{Harvnb|井上|2010|p=₋413}}</ref>。中国史料では、高句麗、百済、新羅の順で歴史が古くなに登場する<ref>{{Harvnb|岡田|2001|pp=130}}</ref>。『三国史記』において高句麗の建国よりも新羅の建国が先な早く設定されたのは、著者の[[金富軾]]が、[[慶州]]出身で新羅王家の[[一族]]だったためであると考えられる<ref>{{Harvnb|岡田|2001|pp=130}}</ref>。金富軾は、新羅王家の一族だったが、高麗王家に仕えて、[[平壌]]が高麗から独立した反乱を鎮圧して武勲を上げた。『三国史記』を書いたのは、高麗王家の母方の系譜を書き換えて慶州金氏の自分の一族の血が入っていることを主張するため人物である<ref>{{Harvnb|岡田|2001|pp=130}}</ref>。『三国史記』が新羅の建国年を紀元前57年からはじめたのは、[[紀元前108年]]に、[[漢の武帝]]が[[朝鮮半島]]に[[漢四郡]]を設置して、[[昭帝 (漢)|昭帝]]が[[紀元前82年]]に朝鮮半島南部の[[真番郡]]を廃止した<ref>{{Harvnb|岡田|2001|pp=132}}</ref>。それで、新羅が起こる慶州方面が中国領土ではなくなった。それからあとの最初の[[甲子]]の年、[[六十干支]]の最初の年が紀元前57年となる<ref>{{Harvnb|岡田|2001|pp=132}}</ref>。『三国史記』が、新羅の建国年を紀元前57年に設定したのは、それ以前は朝鮮半島全部が前漢の武帝に征服されていたから、それと衝突する時期に建国年を設定できなかった。金富軾は、可能なかぎり古い時代に、新羅の建国年を置こうとしたが、紀元前57年が[[テクニカル]]な限界であった<ref>{{Harvnb|岡田|2001|pp=132130}}</ref>。
 
『三国史記』が新羅の建国年を紀元前57年としたのは次の論理によると見られる。まず、『[[漢書]]』等の記録によれば[[紀元前108年]]に、[[武帝 (漢)|漢の武帝]]が[[朝鮮半島]]に[[漢四郡]]を設置し、[[昭帝 (漢)|昭帝]]が[[紀元前82年]]に朝鮮半島南部の[[真番郡]]を廃止した<ref>{{Harvnb|岡田|2001|pp=132}}</ref>。その後最初におとずれる[[甲子]]の年([[六十干支]]の最初の年)が紀元前57年となる<ref>{{Harvnb|岡田|2001|pp=132}}</ref>。それ以前に設定した場合、朝鮮半島の大部分に前漢の郡が設置されていたという記録と衝突してしまうため、これより遡って建国年を設定できなかった。つまり、金富軾は可能な限り古い時代に新羅の建国年を置こうとしたが、紀元前57年が[[テクニカル]]な限界であった<ref>{{Harvnb|岡田|2001|pp=132}}</ref>。
 
=== 斯蘆国の時代 ===
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== 参考文献 ==
* 『[[三国史記]]』第1巻{{Cite book|和書|author=[[金富軾]]撰 |translator=[[井上秀雄]]訳注、平凡社〈 |title=三国史記1|series=東洋文庫372〉、|date=1980-4 ISBN |publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4-582-80372-53|ref=三国史記1}}
* 『三国史記』第3巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫454〉、1986 ISBN 4-582-80454-3
* 『[[三国遺事]]』 [[一然]]撰 [[坪井九馬三]]・[[日下寛]]校訂&lt;文科大学史誌叢書&gt;東京、1904([[国立国会図書館]] [[近代デジタルライブラリー]])
* {{Cite book|和書|author=朝鮮史研究会編|title=朝鮮史研究入門|date=2011-6|publisher=[[名古屋大学出版会]]|isbn=978-4-634-54682-0|ref=朝鮮史研究会編}}
* 井上秀雄『古代朝鮮』、日本放送出版協会&lt;NHKブックス172&gt;、1972 ISBN 4-14-001172-6
* 『朝鮮史』[[武田幸男]]編、山川出版社&lt;新版世界各国史2&gt;、2000 ISBN 4-634-41320-5