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監督就任にあたってはスローガンに「データ+スピード&パワー」を掲げた。これは選手の地力(スピードとパワー)を向上させることで、「[[ID野球]]」を主唱した前監督野村時代のようなデータ重視の野球だけではなく、根本からチーム力を底上げしようと図ったものであった。若松は在任中にこの目標を完全に達成することはできなかったが、日本一に加えて球団史上初の4年連続Aクラス入りを果たした。野手の起用においては、生え抜き組・移籍組を問わずベテラン選手を多く起用する傾向があったものの、一方で岩村明憲・青木宣親らのように若松の下で大きく成長した若手選手もおり、新旧交代に著しい支障をきたすことは無かった。投手の起用に関しては率直に自らの本分ではないことを認め、おおむね投手コーチの[[小谷正勝]]・[[伊東昭光]]に一任していた。また、現役引退後は球団広報を務めていた[[杉村繁]]の指導者としての資質を買って打撃コーチ補佐に抜擢している(のち打撃コーチに昇格)。
[[2001年]]は[[川崎憲次郎]]がFAで移籍、[[ジェイソン・ハッカミー]]が退団、[[伊藤智仁]]・[[山部太]]が故障離脱と先発投手陣に深刻な不安を抱えた状態で開幕を迎え、苦戦が予想された。しかし、ベテラン[[古田敦也]]がチームを牽引し、主砲[[ロベルト・ペタジーニ]]を筆頭とする強力打線が猛威を振るうと、懸念されていた投手陣も、2年目の[[藤井秀悟]]が14勝をあげて最多勝を獲得し、テスト入団の[[入来智]]・[[前田浩継]]や8月に加入した[[ケビン・ホッジス]]らが奮闘して穴を埋め、チーム防御率3.41とリーグトップの数字を残して戦前の不安を払拭し、終盤で巨人を追い抜いてリーグ優勝を果たした。10月6日優勝を決め胴上げされた直後のインタビューで、
[[2004年]]の[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]では、[[大阪近鉄バファローズ]]の[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]への吸収合併に反対する選手会の署名活動に参加し、自らも反対の署名をしている。[[2005年]][[10月14日]]、本拠地[[明治神宮野球場|神宮球場]]でのシーズン最終戦(対横浜)終了を以て、7シーズンにわたる監督生活を終えた。退任記者会見では「1度しか日本一になれず申し訳なかった」と発言した。就任前年に親会社で発生した[[デリバティブ]]事件のあおりを受けて球団に投じられる予算が激減し十分な補強を得られない状況下にありながら、チームを立て直して日本一に導き、その後の3年間も連続してAクラスを保ったにもかかわらず、自らの功績を誇示するどころか、かえってこのようなコメントを発するのは異例のことではあったが、実直でチーム一人ひとりへの思いやりが強い若松ならではの一言と評された。
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