「鄧小平」の版間の差分

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* [[日本国]][[外務省]]の田島高志(元中国課長、カナダ大使)は、[[1978年]]8月の[[日中平和友好条約]]交渉において、鄧小平が[[ソ連]]を[[覇権主義]]と批判し、中国の反覇権を条約に明記するように主張していたと語る。その際に鄧小平が[[園田直]]外相に対し、「中国は、将来巨大になっても[[第三世界]]に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであり、[[近代化]]を実現したときには、[[社会主義]]を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではない」と述べたという<ref>「鄧小平氏の教訓」、『読売新聞』2011年1月12日付論点。</ref>。同条約調印式の際は[[日米安全保障条約]]と[[自衛隊]]の軍事力増強を歓迎すると表明した<ref>[http://www.nids.go.jp/publication/briefing/pdf/2011/briefing_150.pdf 中国から見た日米同盟体制 - 防衛省防衛研究所]</ref>。
* [[1977年]]、 訪中した元[[陸将]]・[[陸上自衛隊]]第9師団長の三岡健次郎に対して鄧小平は「毛沢東主席は常々『過去のことは水に流そう』と言われた。しかも実際は日本が中国を助けた。日本が蒋介石を重慶まで追いやったから我々は日本軍の占領地域の後方に展開できた。そして8年間に3万から120万にまで増えたし、さらに数百万の民兵まで作り、120万の我々は3年で蒋介石軍を撃破できた。だから皆さんだけを責めるのは不公平だと思う」と述べ<ref>三岡健次郎『自衛隊将軍鄧小平と会す』「軍事研究」昭和52年12月1日</ref>、鄧小平の要請で三岡健次郎が設立した[[中国政経懇談会]]が始めた[[自衛隊]]OBによる日中交流は中断なく今日まで続いてる<ref>Willマンスリーウイル『自衛隊OB・人民解放軍交流会報告 中国の狙いは「尖閣に五星紅旗」』 2013年9月</ref>。
* [[1978年]]の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議|第11期3中全会]]決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。[[新幹線]]に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」「なんという速さだ。まるで風に乗っているようだ」という感想を漏らしている。日産自動車の工場を訪れた際は「[[ロボット]]はお金のことを言わないし、彼らが[[ストライキ]]するのを心配する必要もない」と述べ<ref name=chinajapan2007/>、[[日本車]]の美しさも誉め称えたため、日産自動車から[[高級車|最高級乗用車]]の[[日産・プレジデント]]が特別に贈られた<ref>{{cite news |title= 邓小平访问日本求长生不老药 |publisher=多維新聞網 |date=2017-07-05 |url=http://culture.dwnews.com/history/news/2017-07-05/59823718.html |accessdate=2018-12-25}}</ref>。ほかには、「日本と中国が組めば何でもできる」という、解釈によっては際どい発言を残してもいる。事実、訪中した[[鈴木善幸]]自民党総務会長に対し、中国での日中共同の兵器工場を建設する計画を鈴木本人によれば真剣に提案してきたという<ref>『鈴木善幸回願録』p155</ref>。訪日時の[[昭和天皇]]との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いた鄧小平は立ちつくしたと、[[入江相政]]は言っている<ref>入江相政日記241頁</ref>。この後に鄧小平は昭和天皇の訪中に拘り始め、[[1984年]]に[[田中角栄]]元首相を通して日本に働きかけるも[[宮内庁]]は[[沖縄]]訪問を優先したので断られた<ref>城山英巳『中国共産党「天皇工作」秘録』8頁</ref>。天皇の訪中は[[上皇明仁|明仁天皇]]となってから[[1992年]]に実現する。
* [[1979年]]に訪中した[[松下幸之助]]に対して[[孫悟空]]の[[寓話]]を持ち出して日本の電子産業全体で中国の電子産業を支援させるという「君子の約束」を交わし<ref>{{cite news |title=第17話 鄧小平氏の松下訪問とハイアールのパナソニック白物家電買収|publisher=日本経営合理化協会|url=http://jmcasemi.jp/column/article.php?article=1107 |accessdate=2017-11-29}}</ref><ref>{{cite news |title=松下幸之助と鄧小平の「君子の約束」(2) |publisher=中国網|date=2008-11-04 |url=http://japanese.china.org.cn/jp/qshn/2008-11/04/content_16709362.htm |accessdate=2017-11-29}}</ref>、松下は訪中の際は鄧小平に構想の遅れを詫びていた<ref>{{cite news |title=松下幸之助と鄧小平の「君子の約束」(3) |publisher=中国網|date=2008-11-05 |url=http://japanese.china.org.cn/jp/qshn/2008-11/05/content_16714152.htm |accessdate=2017-11-29}}</ref>。
* [[1989年]]に鄧小平は訪中した[[王永慶]]([[中華民国]]で「台湾の松下幸之助」と呼ばれる)と会談し、巨大プロジェクト「海滄計画」が打ち出されるも台湾政府に中止された<ref>[http://big5.china.com.cn/chinese/zhuanti/jyzswyq/621116.htm 王永慶在大陸的事業 - 中國網]</ref>。