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この時代は姓で呼ばれたり表記されることは稀。氏は多用されたが、王公はその性質から氏を持っていないケースも多い。政も同様
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それから何日か経ったある日、家臣の薦めで、相如は馬車で散歩に出かけた。その道中で前方に廉頗の姿を見つけた相如があえて道を変え、廉頗の通り過ぎるのをまってから引き返す、といった事件が起こった。その夜、この振る舞いを見た家臣たちは一堂に会し、「ご主人さまの匹夫のような振る舞い。さらにそれを恥じないご主人さまの態度には我慢がいきません」といい、辞職を申し出た。すると相如は、「強大なる[[秦]]国が何故わが国を滅ぼそうとしないか解るか?それは、わたしと廉頗将軍がいるからだ。今、廉頗将軍との間に亀裂が生じれば、それこそ秦の思う壺。わたしがあのような行いをするのは国家のためなのだ」と家臣を諭した。
 
この話はたちまち宮中に広まり、廉頗は上半身裸の姿で相如を訪ね、自分の不徳と愚かさを恥じ、「あなたのお考えを知らず無礼をしてしまった。この荊(いばら)の鞭でわたしをお打ち下さい」と手にしていた鞭を差し出した。相如は、「将軍あってこその趙国です」といった。廉頗は心から心服し、「あなたのためならば、たとえ頸(くび)を刎ねられても悔いはありません」といい、また相如も「わたくしも将軍のためならば、喜んで頸を刎ねられましょう。」といった。「'''刎頸の交わり'''」、「'''刎頸の友'''」という言葉はここから生まれた。
 
=== 老齢での活躍 ===